先日もご紹介した松岡正剛の書籍『世界のほうがおもしろすぎた』。
ここで語られていた、一見すると「変な仕事術」に個人的にとても惹かれました。
しかもAI時代に人間に残された数少ない「AIに優る部分」でもあり、今ものすごく大事なことなんじゃないかと思ったので、今日はそんなお話を少しご紹介してみたいと思います。
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では早速、本書から少し引用してみたいと思います。
松岡正剛が、普段どのようにお仕事をしていたのか、というくだりです。
前にも話しましたが、もともとぼくは眠くなってからさらに覚醒してやりつづけるということを自分に課してきたんですね。いまはそんなことは無理ですが、かつてはそういうことをずっとやっていた。意識が朦朧としてきてからがチャンスだと思って、あえて自分の調子のいいときにやるようなことを、いちばん調子が悪いときにやる、というふうにしていた。そうすることで、調子のいい状態にただ乗って何かをやるということに楔を打つ。そういう時間の流れ方をわざと狂わせて、調子の悪いときにも同じように書いたり読んだりするということをしてきた。そうすることで、ものすごくおおきな収穫を得てきたんですね。
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僕はここを読んだ瞬間、一瞬「えっ」って思いました。「逆じゃないの?」と。
でも、その理由も合わせて読んでみて「これだ!」って同時に思ったんですよね。
松岡正剛はその理由について、以下のように語ります。
なぜかというと、調子が悪くなると自分の周辺意識がぼやけてきて、自分を出入りするイメージや言葉や概念もぼやけてきてしまう。そういうぼやけた状態のときにこそ、思いもよらない化学反応が起こるんですね。そういう反応が起こったときに、なんとか集中力を奮い起こしてパッとつかまえる。でもこういうことは、調子のいいときには起こりにくいんです。言葉の定義付けが効きすぎていて、どうしても意識の振れ幅が小さくなってしまう。
最近、僕が漠然と感じていたことを、よくぞ言葉にしてくれた!って思ったんですよね。
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この点、一般的には「健全な精神は健全な肉体に宿る」と語られがちです。
そして、それは確かにそう。ぐうの音も出ないほどの正論です。
でも、果たしてほんとうにそれ”だけ”なんだっけ?とも同時に思うのです。実は、それだけでもないよなあと感じてしまう。
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というのも先日、僕自身が軽く風邪を引いてしまいました。
1日だけで15時間ぐらい眠っていました。Voicyでも、明らかに鼻声が続いていたかと思います。
じゃあ、なぜ今回、体調を崩したのか。
こんなことを書くとヤバいヤツ認定しか受けないから、サロンの中だけでしか書けないけれど、意外と村上春樹『街とその不確かな壁』の下巻のオーディオブックが、このタイミングで配信されたせいなんじゃないかって思っています。
この作品を読んだことがある方にはおわかりの通り、下巻のクライマックス、あの場面にちゃんと降りていくためには、読み手の自分自身も、夢うつつになる必要がある。
言い換えれば、普段活動しているときの自意識をある程度制御する必要があって、そのために風邪ひいたのではないかと勘ぐっているということです。
過去に2度ほどこの作品は通して読んでいて、自分自身は既に内容も知っているわけだから、無意識のうちに自分の身体がそれを望んだのではないか、と。
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おかげさまで(?)、ベッドの中で深い読書体験(聴書体験)をすることができた。
体調を崩したことによって本当に辛かったから、変な話でもあるのだけれど、自意識後退させるために、というか後退していなかったらこんな読書体験は決して味わえていなかったなあと思うのです。
「身体よ、おまえ最低だな」と思うけれど、一方で同時に「ありがとう」とも思う。今回も本当に不思議な体験でした。
このような形でしかつながることができなかった「何か」が間違いなくあったなあと思います。
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ちなみに、今回だけではなく、2021年にも、結構大きな風邪をひいていて、3日間ぐらい寝込んだときなんかもそうでした。
あの時に聴いたジョーゼフ・キャンベルの「神話の力」のインタビューが、あまりにも自分にとって衝撃的すぎた。
当時の自己の体験がなければ、今は全然違う場所にいただろうなと思ってしまうほどです。
ものすごく大事な3日間だったなと記憶しています。まさに小さく死んで、あの日に生まれ変わった感じ。
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どういうときに意識を外していけるのか。どういうときに自意識を後退させて、ロジックを廃していけるのか。
そして、ロジックを外しつつまた、こちら側にちゃんと「戻ってくる」ことができるのか。
今とても変な話をしている自覚はあるのだけれど、少しでも共鳴してくれる人がいるとも信じているし、きっと松岡正剛も似たようなことを語ってくれているんだろうなあと思うのです。
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また、俗っぽい話で言えば、「お酒を飲んで酔っ払う」っていう行為は、要はそういうことだと思うんですよね。
酔拳ではないけれど、酔拳みたいなもの。
薬物だってきっとそうです。
もちろん、僕はここで、自ら望んで「退廃的になれ!」と語っているわけではない。そこはくれぐれも誤解しないで欲しいです。
ただ、現代社会においては、美しい回答を出してくるAIでは、絶対にたどり着けないところこそが価値になりつつあるわけで。
その部分というのは意外と自分が体調を崩しているときにこそ、実感しやすいところにヒントがあるんじゃないか、という話をしたいのです。
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書籍『身近な薬物のはなし』にかかれていたように、ここ十数年は、アルコールよりもカフェインが流行った時代です。
つまり、意識をシャキッとさせることが流行りに流行った時代。
でも、そんなシャキッとすることって、実はAIがいちばん得意だったりもする。
一方で、AIには泥酔状態は作り出せない。
また、もし仮にそんな素振りをAIが見せても、僕らはそれをAIの「本音」とは捉えない。ただのAIが吐き出すエラーだと捉えてしまう。
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言い換えると、カフェインで意識を研ぎ澄ませて、社会の歯車として最適化する高揚感こそが、「生産性」に寄与するものだと思っていた。
でも、アルコールによって意識の制御を解き、弱さを露呈させ、他者との「あわい」を作っていくことのほうがむしろ、AIには生み出せないこれからの「生産性」なのかもしれない。
なんにせよ、身体の声に対して、もっともっと耳を澄ますということ。それこそが身体性であり自然でもあるわけだから。
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自分から積極的に悪い方向(意識が朦朧とする方向)へと舵を切る必要は全くないかもしれないけれど、そっちはそっちでちゃんと宝物が眠っているということ。
だとすれば、自らの置かれている身体性に対して、もっと敬意を払いつつ、「承けたもう精神」を発揮することはとても大事だなと思います。
調子が悪いとき、思うように動けないときにも「今、自分という身体において、一体どんな化学反応が起きようとしているのか?」と自分自身に問うてみること。
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たとえば、先日、山口さんがプレミアム配信で語ってくれた「妊娠における身体の変化」の話なんて、ほんとうに、ほんとうにおもしろかった。
「自己の身体における実験、さらに自分自身に取材している感覚です」って山口さんはおっしゃっていましたが、まさにそうなんだろうなあと。
そして、AIは妊娠することができない。絶対にAIには語れない話で、ものすごく貴重極まりない話。
で、これは自惚れたおこがましい視点かもしれないですが、僕と山口さんが何度も過去に対話を繰り返してきたから、語ってくれた話でもあると信じています。
お互いの中で育まれた信頼感を頼りにして、不安定な、まさにフラジャイルな自己をお互いに恐れずに、まさに間主観的に、両者のあいだに丁寧に「何か」を立ち上げていったからこそ、聞かせてもらうことができた奇跡みたいな話でもあったなあと思うのです。
それもまた素晴らしい体験だったなと感じるのです。
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確かに、健全な身体をつくっていくことは大事なのかもしれない。
でもほんとうにおもしろいのは、お互いの身体性に耳を澄まし合いながら、お互いの日々のやり取り、そこからうまれる小さな信頼を頼りにして、お互いにフラジャイルな状態を問い合うってことだと思う。
常に変化し続ける不安定な身体を抱える自己から、聴こえてくる呼び声に耳を澄ますこと。それこそが、AIではつくることができないところ。
だとすれば必要なのは、そういう身体の声がちゃんと聴こえてくる「場のつくりかた」のほうなんだと思っています。
一人ではきっと限界がある。
たとえ、毎日ジムへ行って一生懸命に鍛えてみても、身体を壊したら、もう終わり。諸行無常で、明日のことは誰にもわからないわけです。
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何度も繰り返すけれど、もちろん、わざと退廃的になれと言っているわけではない。
いや、AIの影響で、実際にそういう人はこれからドンドン増えるだろうけれど、でも僕がここで言いたいことは、そうじゃない。
親鸞の「悪人正機」と一緒です。わざと悪人になる必要はない。とはいえ、悪人こそが救われるというロジックと一緒です。
ひとには必ず「生老病死」の魔の手が必ず襲ってくるし、その衰えをネガティブだと決めつけているのは、自分自身。
逆に言えば、どうして意識がハッキリしている不老長寿を、有無を言わさずポジティブだとみなすのか。
健やかさや健康を日々目指しつつ、同時に共同体の中で、お互いの限りある身体を持ち寄り合うっていうことのほうが楽しい気がするし、AIには決してつくりだすことができない人間の共同体だからこそ生まれる瞬間でもあると思う。
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身体の不安定さこそが、僕ら人間に摩訶不思議をもたらしてくれる。
そして僕らはなぜか、相手の「完璧さ」にではなく、その「ままならなさ(身体性)」にこそ共鳴するわけだから。
オリンピックだって、そのままならなさの限界に挑戦しているとわかっているからこそ観ていて感動するわけで。
自分がガラッと変わってしまう感覚こそ丁寧に大切に、育んでいきたい。それを深い信頼のもとに、場に提示し合える空間をつくっていきたい。
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それこそが、これからAIにすべての仕事を奪われたあとの人間の、本当の意味で「はたらく」であり「お仕事」であるような気がするからです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
