最近、松岡正剛の遺作である『世界のほうがおもしろすぎた』という本を読みました。

https://wasei.salon/books/9784794980106

松岡正剛の死後に発売された、松岡正剛の自伝的インタビュー集になります。

松岡正剛って、少し興味を持ってみても、一体何の本から手を付ければいいのかわかりにくい代表格。

そして、その順番を間違うと、「全然何言っているかわからん(≒つまらん)」ってなってしまうかと思います。

まず一冊目には、オーディオブックにもなっている講談社現代新書から出ている『日本文化の核心    「ジャパン・スタイル」を読み解く』を強くオススメしたいのだけれど、この本は、その中でも興味をもったら、2番〜3番目ぐらいに読んでみるといいと思う。

松岡正剛の生い立ちがわかることで興味関心軸が定まるし、一生を時系列で理解させてもらうと「なるほど!そういう生い立ちや、若いころのお仕事によって、そのような興味関心がうまれていったのね!」って理解しやすい。

松岡正剛に今後興味を持つタイミングがあり、いつか思い出したら、ぜひ読んでみて欲しい一冊です。

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で、この本なかで僕がとても印象に残っているのが、

「自分が重視したい自己は、何かができる自己ではなく、何かができない自己のほうだ」という言葉。

一見すると変な言葉です。

普通だったら「できる自分のほうを磨け、長所を伸ばせ!」と言われる。実際、僕らもそうやって教わってきた世代だと思います。

でも松岡正剛は、その真逆の姿勢を貫く。

なぜそんな姿勢を貫くのか?

少し本書から引用してみます。

ぼくが重視したい自己は、何かができる自己ではなく、 何かができない自己 のほうです。たとえば、速く走れない自己とか、英語ができない自己とか、旅先でうまくいかない自己とかですね。そういうものをふつうはコンプレックスと呼んでしまうんですが、ぼくはそういうふうには見ません。できない自己も自己である、できない自己こそが自己であるというふうに言いたい。 というのも、速く走れる他者がいるから速く走れない自己がいて、英語ができる他者がいるから英語ができない自己がいるわけですよ。つまりできない自己のほうから、できる他者のほうに視点をずらして、そういう他者へのリスペクトをもつようにすれば、できない自己のほうも編集的になれるんです。そこから 編集的自己、エディティングセルフというものが発動していけるわけです。ぼくの他力感覚にはそういうものもかなり混ざっているんですね。


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これは本当に素晴らしい発想の転換だなと思います。

できないからこそ、できる他者への敬意と、そこから自然と「他力感覚」も得られる。

つまり、できない自分を、他者への敬意の入口にするわけですよね。

コンプレックスを「他者へのリスペクトの入口」として捉え直す発想というのは、単なる自己啓発的な「弱みを、強みに!」とは質がまったく異なるはずです。

できなさこそが他者との関係性を開く、という話ですからね。

そして、この「視点のずらし方」が、松岡正剛が重視した「編集」なんだということです。

「できなさ」は欠陥じゃない。他者との関係を生み出し、育むための装置になり得る。

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そして、これは短所こそ気になってしまうのが人間の性であると考えたときに、ものすごく救いのある言葉にも思えるなあと。

徹底的に短所に向き合ったほうがいいと言ってくれているわけですから。

そのときに問題なのは、卑下するな、悲観的になるな、ということ。

そうやって悲劇のヒロインになってウジウジしていることが一番簡単。でも、そうではなくて、「できる他者」と共にどう共創していくのか、そのためにこそ「できなさ」があると捉えろ、と。

「できなさ」こそが、ギフテッドなんですから。

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以前ご紹介した、鈴木大拙の本の中に出てくる妙好人の話なんかにも、見事につながるなと思います。

妙好人が絶対他力を信じようとするとき、「アミダさまよ、どうぞ自分の煩悩を皆、とってくださるな、これがないと、あなたのありがたさが、わかりませぬ」と語る。

これは、絶対他力を信じるためにこそ、「煩悩こそが、ギフテッドだ」みたいな話なわけですから。


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また、このように考えてくると、この本のタイトル「世界の方がおもしろすぎた」というタイトルも、非常に素晴らしいなと思えてくる。

読み始める前、最初は「どういう意味なのだろう?」と、タイトルがいまいちピンとこなかった。

でも、実際に読み進めてみると、このタイトルにぴったりな人生を歩まれていることがよく分かる。

しかも、このタイトル、実はインタビューアーの方が、松岡正剛さんの話を聴きながら疑問形で「世界の方がおもしろすぎた?」という何気なく聴いた質問が、そのままタイトルに採用されたらしいのです。

松岡正剛事務所代表・太田さんの「あとがきに代えて」には、こんなふうに書かれていました。少し引用します。

じつは本書のタイトル『世界のほうがおもしろすぎた』も、松岡の言葉ではなく、山崎さんが質問として投げかけた言葉である。いつのことだったか、スタッフたちとの打ち解けた雑談のなかで、松岡が「ぼくは天才ではないし、天才肌というのとも違うけれども、ひとつだけ自慢できることは好奇心。たぶん好奇心の天才なんだろうと思う」と語ったことがあった。この言葉は、私が三五年にわたり松岡のアシスタント、マネージャーとして身近で接してきた実感からしても、松岡が自分のことを言い表した本音にいちばん近い言葉なのだと思ってきた。 


そして、その態度のあり様も、さっきの話とつながっている気がします。

つまり、この世界をおもしろがる姿勢、好奇心の天才であることもすべて、「できない自分」を重視しているからだといういことです。

松岡正剛が、なぜあれほど膨大な知識をつなげられたのか。それは知識を収集したかったからではなく、「世界という舞台で起きている驚き(センス・オブ・ワンダー)」を、一瞬たりとも見逃したくなかったからなんだろなと、なんだか心底腑に落ちました。

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ひとは、自分が簡単にできることに対して、興味なんて持てない。

自分には到底できないことを軽々とできてしまう人がいるから、そこに僕らは心の底から感動できるわけで。

しかも、それは何か派手なものとか、子供だましとか、なんだかそんな詐欺的なものではなく、自分がほんとうに欲している心的態度や心がけ、そんな丁寧さのほう。

煩悩にまみれて蔑ろにしてしまいそうになる、日々の営みのなかで、いとも簡単に実現できてしまう相手の態度に感動する。

江戸の儒学者・三浦梅園のあの言葉「枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け」にも見事に通じる話です。

他人という生木にあたりまえのように咲く花にこそ、驚きたい。


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どうしても時期が時期だから、植物の比喩にたとえてしまいたくなるのだけれど、そんな新芽のつぼみみたいなもの。

松尾芭蕉の「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」とは、まさしくです。

そうやって、習い、楽しむためにはどうすればいいのか。

それがコミュニティの真の価値だと僕は思っています、

本当の意味で相手のなかに植わっている種、その余人を持って代えがたい才能の部分をお互いに、心底楽しみ合っていきたいなと強く思う。

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もちろんWasei Salonも、そういう場でありたい。

僕のできないことを、できるひとたちが集まってくれていること、それがいつもほんとうに嬉しいし誇らしい、そしてありがたい。

自分ができることを、これみよがしにアピールをして、ワナビー層を集めるのが一番簡単なんです。

そうやって、自分に対してドンドン金メッキを貼っていけば、いくらでもひとは、その輝きに目がくらんで課金をしてでも、集まってくれる。

でもそんなの何もおもしろくもないし、楽しくもないと僕は思ってしまう。

できることを誇示して集める共同体と、できなさを持ち寄って補い合う共同体では、そこで生まれる関係の質が、まるで違いますからね。

本当のコミュニティというのは、「できない自分」から始まる。

できない自分を大事にしたまま、できる他者に敬意を払い、その敬意の上で共創をしていく、その過程こそが大事だなと思っています。

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そして、これこそが、今の世の中に「ない」もの。でもほんとうに僕らが「欲しい」もの。


本書の中で、俳優の岡田准一さんがご自身のラジオに松岡正剛が出演したとき「松岡さんたちの世代がうらやましい」と語ったという話も、本質的にはそこに触れている気がします。

岡田准一って俳優がいますよね。ずいぶん前に彼のラジオ番組に出たときに(二〇一〇年)、「なんでぼくなんかを呼んだの」と聞いたら、「松岡さんたちの世代がうらやましい」と言ってました。一人一人が自由で、一人一人がつながっている。でもいまのぼくたちはメディアでしかつながっていないというわけです。ぼくたちは好きなことをやっているように思われているけど、まったく違う。人に会うのも事務所を通さないといけない、自分の会いたい人にも会えない、だからこういうラジオ番組を通して自分が会いたい人に会うようにしている、松岡さんの世代が当時何をしていたのかを知りたい、と言われました。     
確かに、当時のぼくたちはみんな、メディアとか世の中の情報とかとは関係なく、それぞれが自分で動いて人と会っていましたね。


一人一人が自由でありながら、一人一人がつながっているという状態。

いま僕らが欲しいのは、きっとそういうつながりなんだと思う。

だからこそ淡々と、でも着実につくっていきたい。

「できない自分」を恥を感じずに、悲観的にも思わずに、むしろ編集の起点にして、より良いものをともにつくりあげるきっかけとなるように、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。