以前、長年読んでいる有料メルマガに、イーロン・マスクが本当に目指している先について、おもしろい言及がなされていました。
具体的には、従来であればあのようなポジションに就いたものは「世界征服」を企んでいたはずだけれども、イーロン・マスクは「世界からの離脱」を企んでいるんだ、と。
このお話が、すごくおもしろいなあと思います。
ウォルター・アイザックソンが書いた『イーロン・マスク』の伝記の上下巻を読んだときにも似たようなことを感じ取りましたが、言われてみれば確かに、彼が目指している世界観はまさに、脱・世界だなと。
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で、これが最近ちょうど読んでいた魚川祐司さんの『だから仏教は面白い! 』という本ともリンクしました。
具体的には、仏教が目指している世界の話となんだか似ているなと思ったのです。
本書では、以下のように書かれていました。
ゴータマ・ブッダの仏教の性質について話をすると、しばしば仏教は本質的に「反社会」的なものなのではないかと、誤解する方もいらっしゃいます。しかし、ゴータマ・ブッダの仏教は、本来的には「反社会」ではなくて「脱社会」的なものなんです。
もちろん、イーロン・マスクが目指している世界と、ブッダが目指した世界が同じだなんてことを言いたいわけではありません。
そこはくれぐれも誤解しないでいただきたい。
むしろ、対局にあると言っても過言ではないかと僕自身も思っています。
ただし、この現在の世界をあるがままに見定めたうえで、そこから「脱したい」という意味としては、両者は共通している部分があるのではないかと僕は思います。
その方法や手段において、両者ともにまったく異なるベクトルに向かっただけということだと思います。
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で、きっと、これは以前もご紹介したことのあるガンディーの「非暴力」の話にも似ているなあと思うんですよね。
ガンディーは「反」暴力を主張したわけではなく、「非」暴力を実践しました。
この違いは非常に大きいという話だと思っていて『ガンディーに訊け』という本の中で、中島岳志さんと僧侶・南直哉さんの対談が設けられていたのですが、そこでも話題になっていました。
非常に重要な指摘だと思うので、少し引用してみたいと思います。
中島 たしかにそうですね。「反暴力」と「非暴力」の違いは、極めて重要ですね。
南 私がなぜこの点にこだわるかというと──人によっては、そんなのはたいした違いじゃないと言うんですが──、私の考えでは、「非」というのは、「反」や「不」や「無」とは決定的に違うんです。「反」「不」「無」というのは、ある対象を目の前にして、それに対して態度を決めることです。これに対して、「非」というのは、態度を決めること自体を放棄してしまうことを言う。 「非暴力」というのは、暴力と戦うことではなくて、暴力に対抗することでもなく、暴力を起こすような構造そのものを解体してしまう意味だと思います。
このガンディーの「非暴力」もきっと、「脱」のベクトルだと僕は思います。
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で、この「脱」や「非」という考え方がこれからは一つの大きなトレンドになっていくように思います。
具体的には、従来のように、お互いが袖をまくりあげて、バチバチにぶつかり合って一体どちらが正しいのか、相手が降参するまで撲滅し合うわけじゃない。
それでは、ことは収まらないということを、第2次世界大戦までの歴史を通じて、多くの人々がすでに学んだと思います。
相手の主義主張を変えることはそもそも不可能であって、各人がそれぞれに自分たちがみたい「物語」があって、自分にとってはその「物語」に対して強烈に違和感があるから、ただただ距離をおきたい、そこから脱したいというふうに願い合うのだろうなあと。
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でも、それを決して許さないひとたちも、一方では多いわけです。
彼らは純粋に、そのような価値観が倫理的に間違っているとか、その姿勢がまさに特権的だとかを語る。
その背後には、自分たちが置いていかれてしまって寂しいとか、孤立への不安とか、本当にいろいろな感情があるんだろうなとは思いつつ、僕は、それこそが「世界征服」の欲望なんじゃないかと思うのです。
もっというと、ここに「リベラルの罠」というか「嘘」があるなあと思う。
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この点、こちらも以前もご紹介したことのある、哲学者・東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』の中に、保守とリベラルの違いが書かれてありました。
ここでも少し引用してみたいと思います。
保守もリベラルも抽象的な目標では一致する。たとえば弱者を支援しろといわれて反対する政治家はいない。けれどもリベラルはそこで、できるだけ広く「弱者」を捉え、国籍や階級、ジェンダーなどを超えた普遍的な制度を構築しようとする。それに対して保守はまず「わたしたち」のなかの「弱者」を救おうとする。むろん、その「わたしたち」の内実は事例により異なる。「わたしたち日本人」のこともあれば「わたしたち男性」「わたしたち富裕層」のこともある。いずれにせよ、そのような共同体を優先させる発想、それそのものがリベラルにとっては反倫理的で許しがたいということになる。他方で保守にとっては、身近な弱者を救わなくてなにが政治だということになろう。いまの日本の保守とリベラルの対立は、抽象的な主義主張の対立としてというより、そのような連帯の感覚の対立として捉えたほうが理解しやすい。
万人に適用されないと、気がすまない、意味がないと主張するあり方、それを現代における「世界征服」と呼ばずして一体なんと呼ぶのか。
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さて、ここで、一気に卑近な例になってしまって申し訳ないんのですが「アルコールを飲むか飲まないか」の議論においても、まったく似たようなことを、僕はいつも当事者として強く思います。
僕は、2020年からお酒を飲むのをやめて、今年で5年目に入ったわけですが、僕は脱アルコールをしただけであって「反アルコール運動」がしたいわけではない。
だから、アルコールを販売するなとか、他人にアルコールを飲むなと強いる気持ちはまったくありません。
あくまで自分が飲むのをやめただけです。それで「脱アルコールをしました、だからもうお酒を飲めません」という話をすると、こちらが聞いてもいないのに、アルコールの必要性を執拗に語ってくるひとたちは本当に多いです。
そして暗に、アルコールを飲む世界のほうが良い世界だと、僕を説得しようとしてくる。
でも、僕は他者がアルコールを飲むことを一切否定していません。むしろ飲みたい人は思う存分飲めばいいと思っている派です。
ただ、僕自身は、そのアルコールを飲みたくなる自己に一度疑いの目を向けて、その渇愛や欲望の正体が「苦」だと悟った結果として、自らはそこから脱しようとしただけ。
にも関わらず、なぜか時々「反アルコール」だと見做されてしまって、これがいつも本当に不思議でしょうがないなと思います。
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で、話をもとに戻すと、この離脱をしようとしているひとたちを、無理やり引っ張り巻き込まないことがまず大事なんじゃないかと思う。
正義のような顔をする人たち、特にリベラルみなさんは、東浩紀さんの本の中にも書かれていた通り、本当に万人に「共通のルール」を適用しようとしてくる。
カントの定言命法のように、そういう思考実験は非常に重要だと思うけれど、現実問題にもそれを厳密に当てはめて、他者に強制しようとしてくる態度は、世界征服のソレとまったく変わらない姿なんじゃないかと僕は思います。
そんなことをすればするほど「北風と太陽」と同様で、より一層そこから脱したいと願う人が逆に増えるだけだと思います。
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そして、これからのコミュニティの文脈というのは、これまでの「反◯◯」から「脱◯◯」の運動になっていくのだと僕は思っています。
右派vs左派というような形で、これまではお互いの自らの正当性を声高に主張し合ってバチバチに争ってきたわけだけれど、どっちの思想が正しいのかではなく「私達はここから脱しよう」という第三の動きが、コミュニティ運動につながっていく。
このときに僕らがやっていることは、あくまで離脱なんだということです。
これからは、様々な形で既存の「物語」から離脱するひとたちが増えていくと思います。
良くも悪くも、どうしたってそんなふうに「ゲーテッドコミュニティ」みたいな形に向かっていくと思います。イーロン・マスクが、まさに今そうしようとしているように。
そして、若干文脈というかベクトルは異なれど、根本的には、この「脱」という考え方が主流になっていくのはもう間違いないのかなと。
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これは言い換えると、単純に世間は、もうあなたのことを構ってくれなくなる。
「あなたはあなたで、好きにやってください」という状態に置かれて、自分はそれと一体どう向き合うのかが試される。
どのコミュニティに自ら所属するのかも、完全に自分次第です。もはや世間の空気や倫理で、それを強いてさえもくれなくなる。
ある意味では、今より一層厳しい世の中に突入していくとも言えそうです。
特に、空気に流されるだけで生きてきた人たちにとっては、「なんで、私に正解や答えを与えてくれないの!?」と逆に疑問に思ってしまうはず。
しかし、そんなときほど神話学者ジョーゼフ・キャンベルの教えであるような「あなたの至福を追求しなさい。あなたの無上の喜びに従うこと。」という視点に尽きるのだと思います。
なかなかにむずかしい話だとは思うけれど、今とっても大事な視点だと感じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。