自分が無意識のうちに社会から影響を受けて「ケイベツ」させられているもの。それらを定期的に棚卸しする作業って本当に大事だなあと思います。

普通に生活をしていたら、これらに自覚的になることはとっても難しいことだから。

自らが、直接そのような事象から危害を加えられたわけでもないにもかかわらず、声の大きなひとたちが「ケイベツせよ!」と叫んでいるから、自然と自分も近づいてはならないと思い込んでいるものって、意識的に棚卸ししてみると、きっとたくさん見つかるはずです。(特に昨今の社会状況のなかにおいては)

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でも、そこには必ず、それぞれの「顔」が存在している。

自分が「ケイベツ」の対象として扱っているものにも、「まなざしや声、匂いや触覚」などが存在していて、それらを自分の体験として思い出せない場合には、つまり五感で体感していないものには、世間からの「ケイベツ」要請に対して素直に従っているにすぎない場合が多いです。

ここで少し話は逸れますが、雑誌「暮しの手帖」をつくった花森安治は、戦後すぐに「暮しの手帖」をつくるに至った経緯について、以下のようなことを述べています。


花森     そこで、僕が考えたのは、精神の講義、修身の講義……精神をこうするとか、モラルがどうとか、「平和が大切である」とか、そういうレクチャーを、いくらしたって、ダメだッ。精神的レクチャーとか、インスパイアとかだけで、人はつくられていかない。それが、僕の体験と信念ですよ。

 そうすると、なにか、もっと形のあるものでなくちゃいかん。
そこで、考えたのが「暮し」ですね。

 それまで、日本人は、「暮し」というものを「ケイベツせよ」と教えられてきた。「暮し」は、「着る」「食べる」「住む」「子どもを育てる」……その他、小さいことが、いろいろたくさんあります。それらは「すべて二義的なことだ」「決して大切なことではない」という教育が、おそらく徳川時代の前から、主として侍の階級を通じてあった。

そして、明治時代になると、それが全国民に広がった。たとえば、「衣は暑さ、寒さを防げれば、それで十分である」。それ以上の「美しい」とか「快適である」とかは、考える必要はない。それは、 贅沢 である。まちがっている。そして「食べ物」は「飢えを満たせばいいんだ」。それ以上の「美味しい」とか、考えるのはいけない。「住まい」も、雨を防げれば、風を防げればいい。「楽に暮そう」なんてのはいけないんだ、という考えですね。

引用元:『暮しの手帖』をつくった男    きみは、花森安治を知っているか? 


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つまり、ひとりひとりが自らの暮らしを大切にするという行為は、上述したような五感で感じられる直(じか)の感覚を取り戻していくような行為でもあるのだと、僕は思うのです。

また「暮らし」とは本来、絶対に交差しないマクロの「理想」とミクロの「現実」を行ったり来たりをする行為でもある。

「世界平和」や「飢餓撲滅」とSDGs関連の用語を家の外では大声でうそぶきながらも、家の中では自分が産んだ子供にだけ食事を与えているという行為、そのダブルスタンダードの状況に私自身が感情的にも身体的にも身悶えして、引き裂かれること。

この葛藤を受け入れながら、なんとか折り合いをつけつつも、毎日を淡々と過ごしていくことが「暮らし」を大切にするということの真意でもあるのだろうなあと。

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私は、一体何を無意識のうちに「ケイベツ」させられているのか。

そのうえで、しっかりと五感を用いて、私の「暮らし」の中にある「顔」のある事象と向き合っていく。そんな行為をひとりひとりが自らの実感値として、直(じか)に体験していくこと。

これ以上に大切なことってほかにないと思います。

花森安治については、以前も似たようなブログを書きました。ぜひこちらも合わせて読んでみてもらえると嬉しいです。

参照: 「暮らし」というテーマに人生を賭けることの意味。 

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。