最近、とても強く感じることがあります。

それは、その時代の人間が「本当に」体験したことの中からしか、真の表現にはたどり着かないんだろうなということです。

だから過去の表現者に憧れて、そのひとが表現しようとしたことを再現しようとしてみても仕方がない。

それは二番煎じで、妄想の域を超えない。

そうではなく、自分たちが「本当に」体験したことは何かを徹底して考える。

そのことを自ら深堀りしながら、描かないといけない。

先日、とある現代作家さんの人気ミステリー小説を読んだのですが、ドストエフスキーの『罪と罰』をオーディオブックで聴いたあとだったからなのか、犯人の心理描写や殺人のシーンが稚拙過ぎて、正直あまり楽しむことができませんでした。

ドストエフスキーが描く犯人の心理描写や、その追い込まれていく感じのリアリティがあまりにも凄まじすぎるのだと、改めて衝撃を受けたんですよね。

それは、ドストエフスキーが、自分が生きる時代と真摯に向き合って、その時代の中で経験してしまったことを、深堀りして書いてくれたからなのだと思います。

他にも、『夜と霧』を書いたヴィクトール・E・フランクルの言葉に、現代を生きる僕らが心打たれてしまうのも、彼が自分が本当に体験したことを書いてくれたから、です。

また、昭和の文豪たちも、なぜあれほどまでの作品群を残せたのかと言えば、戦争というアポリア(解決のつかない難問のこと)を、まざまざと体験したからなのだと思います。

そう考えると、僕らの世代だけが、なぜか体験してしまっている「アポリアのようなもの」は、きっと必ず存在しているはずなのですよね。

それと向き合いながら、自ら深堀りし、そこで得られた気づきや発見を表現しようと努めること。

それが普遍に通じる唯一の道だと思います。

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どうして唐突にこんなことを考え始めたのかと言えば、昨日、深海誠監督作品の最新作である『すずめの戸締まり』を観てきたからです。

この映画は「過疎で人口が減り、賑わいが消えた日本各地を悼む旅」の映画だそうです。

この映画を観ながら、そこに描かれていることは、確かに僕らの世代が体験してきた物語だと、僕には明確に伝わってきました。

僕らが体験してきたことがそのまま描かれている、と。

そして、最近「能」に関する本を読んでいたからかもしれないけれど、現代版の能舞台みたいだなとも思いました。

具体的には、「慰霊と鎮魂」のような要素が非常に強くて、今を生きる日本人として、日本人というアイデンティティが勝手に何度も泣いてしまう。

私が泣いているのだけれど、泣いているのは私ではないという、なんとも不思議な感覚です。

そして、日本の神話など、採訪してくる時代感みたいなものも、大変絶妙なんですよね。

より詳しく書くとすれば、天の岩戸を開いた、芸能の神様であるアメノウズメノミコトをモデルにした主人公に、映画という「芸能」の最上級の場所で、彼女に戸締りをさせながら、国を悼む、弔う物語をつくったらどうだろうかという企画自体が、気分として、確かにものすごく共感できるものがある。

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さて、この「気分」とは一体何なんでしょうか。それが、今の僕の中にあるいちばんの問いです。

最近、歴史などを学びながら、日本全国を旅していると、やっとおぼろげながら理解できてきたのは、表現や人間的な営みの最終地点のひとつは「慰霊と鎮魂」になっていくということです。

それはたぶん、表現や人間的な営みを深く掘っていくと「境界」近辺にたどり着くからなのでしょうね。

そして、「死」や「死者」との出会いというのは、間違いなくどの時代の人間も体験することだから、です。

ものごすごく個人的な体験や問いの中にある、その「境界」近辺にある想いが、時空を超えて「気分」として全く異なる時代の他者とつながることがある。

それが、同時代を生きる人間同士だけではなく、普遍に通じる唯一の道なのでしょう。

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じゃあ、いまこの時代を生きる僕らが、なぜか体験させられてしまっているアポリアとは一体何かと言えば、間違いなくそれは「国家」の衰退であり、国家の弔いなのだと思います。

このように考えてくると、もしかしたら日本史の中で、今がいちばん重要な時代でもあるのかもしれないなあとも思ってきました。

なぜなら、「この国のかたち」が終わるタイミングそのものでもあるわけですから。

現代人の中には「なぜ、私は日本がこんな下がり調子のタイミングに生まれてきてしまったんだろう…?」と思っている方は多いかもしれないですが、奈良時代から始まったこの国の歴史の中で、今という時代が、実はどの時代よりも一番責任重大なんでしょうね。

それは、安土桃山時代でも、明治維新でも、戦後復興期でもない。

なぜなら、今回はもう天照大神(天皇)で、国民がひとつに繋がるとができないからです。

明治維新も戦後復興も、一度この国が破れていることは間違いないのですが、その度に天皇を象徴(中心)にして再度立て直してきた。でも、今回はもうそれが不可能なことは明白な事実だと思います。

天の岩戸から出てきた天照大神(「天皇」という国をまとめる力そのもの)に、お帰りいただくしかない。そのメタファーが「戸締まり」だったんだろうなあと。

それは決して、退治や成敗という話ではない。

大和朝廷の弔いです。それが僕らの世代に任された責務であり、アポリアなのかもしれません。

そのうえでどのようにして、この”国土”を立て直していくのか。

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全国を旅しながら暮らしていると、どうしても視点が弔い的になっていきます。

そして新たな生命や機運を、言祝ぐことがとても重要な要素なのだと気づいていく。

過去には、西行も芭蕉もそうだったようです。これからも、そんな視点を忘れずにこの国を旅し続けてみたいなあと思っています。

そして、海外を旅することにあまり興味が持てない理由も、なんとなく自分の中で見えてきました。

今日はいま考えていることをバラバラと書いてしまったため、大変とりとめのない話になってしまいましたが、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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