ひとが自由を求めるときは、二種類のタイプに分類されると思います。

ひとつは、自己の自由を求めて、より自己の欲望を発散させていこうとするタイプ。

もうひとつは、自己の自由を求めて、より自己の欲望を収束させていこうとするタイプ。

僕は、圧倒的に後者のほうで、「ズレ」や「ブレ」のなかに自分の欲望の構造を理解していこうとしてしまうタイプの人間です。

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「ズレやブレってどういうこと?」と思うかもしれないので、まずは簡単な例から書いてみたいと思います。

たとえば、誰もが体験したことがあり、非常にわかりやすい例としては「体温の変化」が挙げられると思います。

ひとはなぜ、他者のおでこを触るだけで、38℃の微熱を正確に察知することができるのでしょうか?

平常体温からたった1〜2℃程度のズレでしかないのに、それを敏感に察知することができるのは、よくよく考えると非常に不思議なことです。

でも、それは計っている人間側の方にも、36℃の平熱という「明確な基準」があるからですよね。

決して、人間が2℃の温度差を、いついかなるときも正確に判断できるわけではありません。

その証拠に、50度と52度のお湯の温度差を触れることによって正確に判断できる人間というのは、限りなくゼロに近いはずです。

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この話と同様に、以前読んだ『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本の中で強く膝を打ったお話は、宗教が日常の生活の中に戒律や禁欲のような「禁止」を置くのは、それが行動として正しいのかどうかとは、全く関係ないというお話です。

それは人間の「欲望」を自覚させるための手段でしかないのだと。


上記の引用部分にも書かれているとおり「白い壁ほど、そこに投映された影の形がよくわかる」

戒律や禁欲というそんな「白い壁」という「基準」を自らの中に置くからこそ、それを逸脱した(逸脱したくなる)私の欲望がちゃんと明確に浮き彫りになって、その事実を理解できるようになってくるんですよね。

つまり、戒律とは、36℃の「正常な体温」のようなものとして機能を果たしてくれているに過ぎないわけです。それ以上でも以下でもない。

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しかし現代においては、多くのひとがその戒律自体の「効果効能が本物かどうか、有効かどうか、化学的に正しいのかどうか」ばかりを気にしてしまう。

でもそんなことは、正直どうでもいいんだと思います。

合理的である必要なんてほとんどない。

もし合理的である必要があるとすれば、それが正しく実行された際に「こんな素晴らしいメリットがありますよ」と説明して、相手に納得してもらうためだけに存在している。つまり、欲望自体を自覚させる方向へと導くための「嘘も方便」として存在しているに過ぎない。

こんなこと書くと、多方面から怒られそうだから、なかなか表では書きにくいことではあるのですが、実際にそうなのだから仕方ない。

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これはものすごく大切なことだと思うので、改めて繰り返しますが、「その戒律の実行が、自己の欲望それ自体と向き合う必要があるから、非常に難しい」ということ一点においてのみ、その戒律や禁欲には、価値が生まれてくるのです。

そしてきっと、スポーツの本来の役割も、似たような役割として生まれているはずなんですよね。

そうじゃなければ、狩りの時代が終わったあとにおいても、100メートルを早く走る能力なんて高めてみても、しょうがない。合理的に考えれば、自転車や車、飛行機のほうが圧倒的に人間よりも速いのですから。

それでもなぜ、人間はスポーツをやめないのかと言えば、各種スポーツを極めていく過程の中で、自分自身の「身体と精神」をコントロールすることがこんなにも難しいことなのかと改めて自覚するためであり、そのために各種スポーツの厳しいルールが存在しているからでしょう。

もちろん一方で、「このように精神を整えて、身体を運用することさえできれば、その厳しいルールを守りつつ、相手に勝つことができるようになるのか」と、私の中に存在するその「コントロール可能性」に対しても、改めて強烈に実感することができる。

そんな絶望と希望をひたすら毎日繰り返していくことで「人間としての限界」だって見えてくることは、間違いありません。

だからこそ、何かをマスターしようと日々励む人間は、より一層、ドンドン謙虚になっていく。

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そして、このことに自覚的になれたときに、初めて人は、本当の自由とは、常に欲望に振り回されながらも、その欲望を発散し続けていけるような状態ではなく、その欲望に振り回されない状態を保ち続けることであると知る。

欲望の求める衝動から、できる限り自由である状態こそが、本当の自由だと気づけるようにもなっていくのでしょう。

宗教の戒律や禁欲、スポーツのルールなんかは、そんな気づきや発見を人間に与えるためにあるのだろうなあと。

じゃあ、具体的にはその戒律やルールというのは、どのようなものを自らのなかに定めるとよいのでしょうか。

一番わかりやすく、誰にとっても今すぐに取り組むことができるのは、以前このブログの中でもご紹介したことがあるブッダが説いた「八正道」だと思います。

参照:今こそ八正道。

少なくとも、僕はこれを日々の生活の基準に置くことで、以前にもまして自己の欲望と向き合っていけているような気がしています。

今日のお話が、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっては何かしらの参考となったら幸いです。

※これは以前、Wasei Salon内限定公開ブログとして書いたものに、加筆修正を加えて全体公開している記事となります。

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