現代社会は、目の前のひとに始めから開発可能性がないこと、たとえば身体に明確な障害があるなどの場合は、積極的に福祉でその人の社会性を補おうとします。

しかし、本人の努力不足や、ポテンシャルがあるにもかかわらず本人が怠けていると思われる場合は、決して手を差し伸べようとはしません。

むしろ、「自己責任」という悪魔のような言葉を印籠のようにかざして冷たく突き放してしまう。

具体的には、客観的に見れば働けるはずなのに、満足に働こうとはせずに、生活保護を受けようとするひとを見つければ、必ず「まずは自助と公助(家族や親戚の努力)だろう」と言って簡単に突き放してしまう。

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なぜ、人間はそのような判断を行ってしまうのでしょうか。

この点、一般的には自らの努力に「敬意」を払って欲しいからだと説明されることが多いです。

「自分は努力して今の立場を勝ち取ったのだから、おまえにもできるはずだ」という一貫した主張は、過去にその努力を行った私を尊敬して欲しいという感情の表れなのだと。

若者や後輩にも、自分と同じような苦労や努力を強いる年長者もそうです。

過去にあれだけ頑張った「私」をとにかく褒めて欲しいと無意識に願っているのだと。

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確かに、そのような側面はあるかと思います。

でも、それだけでは説明がつかない部分もあるかと思います。

たとえば、既に世間から尊敬の念を両手いっぱいに抱えきれないほど受け取っている人であっても、やっぱり努力論や根性論を口走る瞬間があります。

まさかそのような人たちまでが「これ以上の尊敬の念を私に払え!」と言っているようには思えません。(その可能性もゼロではないですが)

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きっと、他の要因もあるはずです。

この点、僕の仮説は、人間は他人の潜在能力が開花する瞬間を眺めるのが単純に好きで好きで堪らないからなのだと思います。

いや、他人だけじゃなく、花や犬(ペット)でも構わない。

目の前に存在する生命が、天から与えられた(と私が勝手に信じている)持てる能力を最大限発揮し、それが見事に開花したと感じるとき、これ以上ない愉悦と快楽を感じる。

そのための労力なら惜しまない。無意識のうちに「憎まれ役になったって構わない」とさえ思っている。もちろんお金や時間が増えたりするような直接的な「利益」がなくても一向に構わない。

ただただ、目の前の命のポテンシャルが最大限引き出された瞬間を眺めるのが大好きなのです。

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それでは、なぜ人間はそのような瞬間を好むのか?

それは、「私の助力でソレを引き出すことができた」と感じることが、とても気持ちのいいことだからなのだと思います。世界一、「貢献感」を感じられる瞬間でもあり、それが多幸感を感じられる瞬間でもある。

だからこそ「もう少しだけ努力してみてくれ…!」と懇請したくなる。

「おまえのポテンシャルは、そんなものではないだろう!」と。

つまり、世間に蔓延る努力論や根性論というのは、ある種「無償の愛の裏返し」なのだと思います。

でも、それがいちばん相手を苦しめることにもつながってしまっている。

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さらに、この「私」の成長がぐずついているときほど、人間はこのような行為に及びがちです。

たとえば、自分の人生でうまく自己実現できなかったと思っている女性がその後母親になり、娘に対して芸能界やスポーツ界で活躍できるように夢を託し、朝から晩まで付きっきりでマネージャーのような役割をこなしていることがあります。

現在の自分にもちゃんと成長の余地を感じられたら、わざわざ子どもに対してそこまで付き纏わないことは一目瞭然です。

にも関わらず、往々にして母親はこどもに対してそんな自己実現を託してしまう。

これは言い換えれば、身近な他者の成長に対して、自らが「同化」できる能力を人間は持っているということです。

その成長の幅を埋めていく子どもの喜びを、まるで自分ごとのようにして受けとめることができてしまう。

そんな特殊な「同化(同期)能力」を人間は秘めているわけです。

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さて、ここまで語ってきた中での最大の問いは、

「では、なぜ人間はこのようなヘンテコな特殊能力を身につけるようになってしまったのか?」ということです。

黙って自分の成長だけに興味関心をとどめていれば、人間関係で余計ないざこざを起こすことはない。

にも関わらず、他人の成長に口を出さずにはいられない。その結果、「自己責任論」のような悪魔の言葉だって容易に生み出してしまう。

僕が考えるその最大の理由は、人類はそうやって目の前の人間をなんとか成長させて、次の世代にバトンを繋いでいかないといけないと感じる宿命にあるからなのだと思います。

つまり「目の前の相手に成長してもらわないと困る」と私の遺伝子が勝手に思っている。さもなければ、そのまた次の世代にも私が受け継いできたバトンが繋がっていかないから、です。

逆に言えば、この次世代のポテンシャルを最大限引き出すことに対して、何の愉悦も感じなかった人類(類人猿)というのは、とっくの昔に既に滅びてしまったということでもあるのでしょう。

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このように、自己責任論が「無償の愛の裏返し」だと思えるようになったら、きっと理性で思いとどまることもできるようにもなるはずです。

「あっ、いま私の中にある人類の遺伝的なプログラムが勝手に発動したな」と。

少なくとも僕はそのように考えるようになって、他人の努力不足が気になってついつい過干渉してしまうようなことは減ってきました。

さて、ここまで長々と語ってきても、最後に残る問いがひとつあります。

それは、人間の個人の意志を最大限尊重するべきなのか、人間の遺伝子のバトンリレーを尊重するべきなのか、という問いです。

極端な話、全員が自己の成長のポテンシャルなんてどうでもいいから、はやく楽になりたい、個人の意志を尊重してダラダラさせて欲しい、自殺させて欲しいと願えば、人類はすぐに滅びてしまいます。

でも、人間の中にある遺伝子は絶対にそれを許さない。

この葛藤を、どのように説明するべきなのか。このことについて書き始めてしまうとまた長くなってしまうので、別の機会に改めて考えてみたいと思います。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。