人間、ひとりで自由に好きな情報に触れられるようになると、大抵の場合、世間の不甲斐なさに呆れてしまいます。

それは誰しもが「大人になろう!」と決意し、ニュースに触れ始めるタイミングで必ず通る道なのだと思います。

なぜなら、メディアとはその構造上、誰もが「呆れて憤慨したくなるようなニュース」ばかりを報道するように宿命づけられているからです。

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だからこそ、世間に対してカンタンに「呆れてしまわないこと」って、意外と大事なことだよなと思うのです。

目の前の出来事(ニュース)に対して「呆れる」という態度を選び取った瞬間、人間はすべてがわかったような気になってしまうから。それ以上問い続けることをやめてしまう。

逆に、私が呆れてしまうような環境を作り出してる「悪」は何か、その犯人探しをはじめてしまうのです。

そして、仮想敵を見つけては、それを攻撃して殲滅するために全力で舵を切るようになる。

「呆れる」という態度を選び取った人間は、そうやって「どうにかして、この不甲斐ない世界を変えなければいけない」と勝手に使命感を背負い込んで、社会変革の方向へと向かってしまうのです。

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もっともっと粘り強く考える。そして問い続けることが大事なのではないのかなと。

大抵のことは、日々私たちが多大なる恩恵を受けていることの裏返しであり、その矛盾や葛藤から生まれていることなのですから。

それは昨日のブログにも書いたようなお話にも近いです。


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じゃあ、呆れる代わりに、私たちはどうすればいいのか。

思うに、呆れそうになったときほど、「人間としての義務」を淡々と実践するべきなのではないかと僕は思います。

具体的には、他者の声に耳を傾け、他者の境遇にできる限り寄り添い、自らもちゃんと暮らしてみる。

自分に備わっている身体や能力を自然から与えられた「ギフト」だと捉え、その贈り物をいかに周囲のひとびとに対してちゃんと行使していくことができるのかをじっくりと考えて、淡々と実践する。

本当の意味で「成熟する」や「大人になる」ということは、そのような態度を指すような気がしています。

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都合よくメディアに自己の感情を操作され、論理的な正しさを盾に正義の旗を掲げてしまわないこと。

そうやって憤慨すると、必ず人間は「自分が見落としたいと思っていることを、積極的に見落とすようになる」、その無作為に対して正当性を与えてしまうのですから。

思うに、各人がそうやって正義の旗のもと「見落としてもいい」と正当性を与えていたことが、知らない間に地面で混じりあって、諸悪の根源となっている場合が本当に多い。

各人が自己の義務に立ち戻り、そちらに目を向けられるようになれば、世間の大半のことは改善へと向かうのだと思います。少なくとも、自己の身辺はそうすることで間違いなく改善していく。

下記の記事で紹介したマザーテレサの言葉は、まさにそのようなことを僕らに伝えたかったのではないでしょうか。


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さて、今夜はWasei Salon内で、セネカの『生の短さについて』の読書会です。

メンバーのみなさんと一緒に「真の閑暇」について改めてゆっくりと考えてみたい。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。