これまで、様々なタイプの人々をインタビューしてきて強く思うのは「世の中で上手に暮らしているひと」というのは大きく分けて2種類存在しているなあと。

ひとつは、人が欲しがらないものを集めて、それをセンス良くととのえて暮らすひと。

もうひとつは、人が欲しがるものを集めて、資産を築いて暮らすひとです。

まず大前提として、どちらが正しいとかではなく、本当に生き方の選択肢の問題です。

そして、これはもちろんパキッとわかれるわけではなく、グラデーションでもある。

ただし、自分がどちらを好むタイプの人間なのかを、本当の意味で理解できているひとが、ブレない生き方を実践できているのだろうなあと。今日はそんなお話を少しだけ。

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前者は地方で暮らしていて、満足そうに生きているタイプのひとに多いです。

一方で後者は、都会で暮らしていて、満足そうに生きているタイプのひとに多い。

そして、往々にしてなんだか漠然と不満そうに生きているひとは、この基準が曖昧な方々ばかりです。

たとえば、いま自分は資産をつくろうとしているにも関わらず、他人が欲しがらないものを選んでしまったりする。

それは「ちょっとだけお得だ」という理由や「自分には分不相応だ」と思ったりしながら、目先の利益や恥じらいに目がくらみ、他人が大して欲しくないものを選んでしまって、結果的にそのものの価値自体が下がってしまい、大損してしまうというような。

投資をするときは徹頭徹尾、自分ではなく世間やそれを動かしている欲望の大きなうねりのほうに目を向けて、他人が将来的に欲しがるものを自らの「資産」として選び取っていく必要があります。

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一方で後者のようなタイプの場合は、そのアプローチが全く異なります。

他者が全く欲しがらないものを選び取り、世間的には価値がゼロだと判断されているものを自分自身の手でセンスよくととのえていく。

わかりやすくいえば、裏山に咲いている野花を家の中に飾って心豊かに暮らすような生き方です。

にもかかわらず、やっぱり他人の欲望も気になってしまい、他人が欲しがるもの(価値を見出すもの)も無理やり選ぼうとしてしまって、結果的に割高になってしまっている事例も本当によく見かけます。

こちらも、他人の欲望や「人と違うと思われたくない」という恥じらいに目がくらみ、世間一般的な価値観に流されてしまっているわけです。

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この点、「資産」タイプの人々が持ち合わせているのは、他人が価値を見出すであろうものを想像する力。

一方で、「センス」タイプの人々が持ち合わせているのは、他人が価値を見出すであろうものを創造する力です。

それは、「知識」と「才能」と言い換えてもいいのかもしれません。

そして、勘のいい人なら既に気づいているかもしれませんが、大多数の人間がいついかなる瞬間からであっても、訓練次第である程度習得可能なスキルが「想像する力」のほうなのです。

だからこそ、書店にはありとあらゆる投資関連の本が並んでいる。つまり、再現可能性が高い。

一方で、創造する力は幼いころからの訓練の賜物だったりする。大人になってゼロから美的センスを磨くのはやっぱりなかななか難しいですよね。(とはいえ、決して無理なことではない)

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じゃあ、全員が知識を仕入れたほうがいいかと言えば、決してそうでもありません。

才能があるひとが「知識」の獲得を目指そうとすると、主観的に不幸だと感じる場合が多いように感じます。いつまでも「他人の靴を履いているような気分」に陥ってしまうのでしょう。

また、「ほしいものが、ほしいわ。」という非常に有名で素晴らしいコピーがありますが、この言葉が人間の本来的な弱さをしっかりと物語ってくれている。

人間のなかには、このように漠然とした「欲しいものが、欲しい」と感じさせる何かがいつも蠢いていて、その正体をちゃんと見定められない人間が、一生搾取される側となり、生きづらい構造になっているのだと思います。

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「自分は一体、誰のための何が欲しいのか」その基準を改めて明確にすることは、本当に大切なことだなあと感じます。

いつもこのブログを読んでくださっているひとにとっても、自分がどちらのタイプなのか、どちらがうまくいっているときに幸福感を感じやすいタイプなのかを客観的に判断するために、今日の記事が何かしらの参考となったら幸いです。