昨夜、サロン内のイベント中に「なぜ、誤解されるようなことをわざわざ書くのですか?」という質問を受けました。

こんなことを言われるまで、誤解をされるような可能性があること自体に、自分自身が気づいていなかったので、本当にありがたい助言でした。

とはいえ、誤解される可能性があるからと言って、前言撤回するつもりもありません。

僕が書いたものを読んで、相手が誤解するかどうかは「他者の課題」であって、自分には直接的には関係がないと思っているからです。

今日はそんなお話を少しだけ。

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むしろ、僕にとって本当に重要なことは「誤解されてしまうかも…」と恐れて、変な婉曲表現を用いたり、本来自分自身が思ってもみなかったことを文字にしてしまうことで、書いている自分自身が「誤解」してしまうことなのです。

それが僕にとって、最優先に避けたいこと。

この点、世間を見渡してみると、誤解されることを恐れて、正直な想いを言語化せずに、誤解されないような言葉選びをし続けてしまった結果、最初はそんな風に思っていなかったにもかかわらず、まるで自己暗示をかけるかのごとく、意見が変わってしまったというひとを何人も見てきました。

これこそが、一番危ういことだと思っています。

書くという行為は「情報」を固定化するための一種の儀式であり、それはすぐに「呪い」へと変わりうる。

そして、そんな呪いは他者に対してかけるものだと思うかもしれないですが、自分自身が一番かかりやすい。それが「書く」という呪いの本性です。

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一方で、上述したように、自分が書いたことを他者が読んでくれて、それを誤解するかどうかは完全に「他者の課題」です。

本質的に自分がどうこうできる問題ではない。にもかかわらず、それをどうこうできると思っていること自体が、ある種の「思い上がり」だと僕は思っています。

そして「誤解されるかもしれないから、余計な発言はせずに黙っておこう、当たり障りのない表現をしておこう」ということが一番賢いことだと勘違いをしてしまう。

そのようなライフスタイルを獲得してしまったら最後、誤解されてしまっているひとたちを哀れな目で蔑むようになってしまうでしょう。

そして「自分はそんなミスは絶対にしないぞ…!」と心に誓い、ますます自分の本音を社会に向けて発信することから遠ざかっていく。

すると「どうせ、世間は全員バカなんだから」という誤った認識を持ち合わせた私が完成する。これが各人が自分自身で自己監視をしてしまう「自己規制社会」の誕生へとつながる。

参照: https://wasei.salon/blogs/f97b2ac9e94e#

これを「呪い」と呼ばずして、ほかに何と言うのでしょうか。

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だからこそ、僕にとっては優先順位が完全に逆なのです。

まずは絶対に自分自身を誤解させないこと。そのうえで、どうかこの私の本意が少しでも他者にも伝わりますようにと、誠意と言葉を尽くすことが、自分のできる唯一の行動だと思っています。

それが、まさに「人事を尽くして、天命を待つ」ということなのではないでしょうか。

そしてたったひとりでも、僕が伝えようとしていることの本意を理解し、世界の見え方が一ミリでも変わってくれたら嬉しいなという祈りを込める。それこそが「祝い」の本質だと僕は思います。

参照: 運がいいひとは、一切運に頼らないひと。 

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実際、この質問をされたときには、そこに同席していた全員が、僕が書こうとしていたことの本意をちゃんと理解してくれていたご様子でした。

だとすれば、僕にとっては十分に書いた価値があったと言える。

その場に居合わせていなかったひとたち(誤読したいひとたち)からどれだけ石を投げられようとも、それは一向に構わない。甘んじて受け入れようと思います。

そんなことを考えている今日このごろ。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。