今は、各人や共同体ごとに信じている「物語」が本当に様々に存在する時代です。
言い換えると、それぞれが、それぞれの内在的論理を持ち合わせていて、それがバラバラな状態。
そして、常に各人が自らで織り上げた物語の観点から世界を眺めていて、それと大きく異なる場合は「あいつらは、けしからん」と日々闘い、お互いに罵り合っているような状態です。
でもそれらは、すべて「物語」なんだという指摘をしたのがゴータマ・ブッダ。つまり初期仏教の考え方であると僕は認識しています。
「我々は、物語にとらわれているだけなんだ、目を覚ませ」と。
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ただ、やめようと思っても、これは簡単にやめられるものじゃない。なぜなら、それは既に緻密に織り上げてしまっているから。
つまり、僕らのような凡夫にとって「事実」であり「現実」である「世界」というものそれ自体が、最初から欲望によって織り上げられてしまっている。
その物語なしの世界というのは、ほぼ存在しないに等しい。
このあたりの開設は、魚川 祐司さんが書かれた『仏教思想のゼロポイント』という本の内容がとてもわかりやすいかと思います。
本書から少しだけ引用してみます。
実際には私たちが「事実」と称している認識であり、その中で「ある」とか「ない」とか判断を行っている枠組みそのものが、仏教の立場からすれば、既にして分別の相(papañca)の所産なのである。そして、分別の相である「物語の世界」は、そもそもその形成の時点で、対象への貪欲と瞋恚を巻き込んで成立している。つまり、凡夫にとって「事実」であり「現実」である「世界」というのは、最初から欲望によって織り上げられているということだ。
一方で、この物語の構造に気が付き始めると、今度はすべてを「無意味である」といったようなニヒリズムのような状態に陥ってしまう。
それはちょうど、他人がやっているTVゲームを観ながら「そんなのをやっても無意味だ」と語るように、です。
でも、それはそれで「無意味である」ことを殊更強調することで「意味があるものが一方で存在する」という認識から逃れられていない状態に陥ってしまっているわけです。
だからブッダは、そうじゃなくて「無意味だ」と口にしてまで新たな「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動を深く見つめろというわけですよね。
この点も『仏教思想のゼロポイント』非常にわかりやすく解説されているので再度、同書から再び引用してみます。
本当に全てが「無意味」なら、そのように語ることにも「意味」はないし、「無意味だ」と口にすることは、単に新たな「意味」を生成している行為に過ぎない。それでも敢えて、「無意味だ」と己や他者に語りかけざるを得ないのは、彼らの心の底のどこかに、「意味」への甘い憧憬が、まだ残存しているからだ。
いまの議論の文脈に合わせて言い換えるならば、ゴータマ・ブッダの語ったことは、「全ては無意味だ」ということではない。そうではなくて、彼が教えたのは、「無意味だ」と口にしてまで新たな「意味」を生成し続けずにはいられない、その衝動、その根源的な欲望を深く見つめ、それを滅尽させることである。そうしてはじめて、私たちは物語の外、「世界の終わり」に、本当に到達することができる。
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じゃあ、一体どうすればいいのか。
ここからが今日の本題となっていきます。
対象への執著がなく、利益が得られるわけでもなく、「ただ楽しい」という状態を目指せ、というのが仏教のスタンスです。
そのようなあり方のことを「遊び」と読んだわけです。ここであの有名な「遊戯(ゆげ)三昧」の話に繋がっていくわけですよね。
コロナ以降に、「遊ぶ」という言葉がやたらとバズワードのように流行っていましたが、これがそのひとつの理由だったかと思います。
確かにこの順番で説明されると「遊び」が一筋の光に思えてくる。
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ただ、その「遊び」の状態をどうやって実現するのか、それが本当にむずかしいことなんですよね。
少なくとも僕は、「遊ぶ」が大事と言っているひとの中で、ちゃんと文字通りただ遊べているひとをひとりも見たことがない。
言われると確かにそうなんだけれど、できそうで、できないことが「遊び」なんですよね。
やっぱりそれは「意志」が先立っているように感じられてしまうからなんだろうなあと思います。
これは、言葉遊びみたいになってしまいますが、遊ぶことが大事と言いながら、「だから遊ぶんだ!」と言っている時点で、すでにその「物語」の中にとらわれてしまっている。
そのような物語にとらわれないための「遊戯三昧」の話だったはずなのに、ふたたび、同じように意志(欲望)で自らの行動を制御しようとしてるからなんだろうなあと。
つまり、遊ぼうと思っても遊べないのが「遊ぶ」という行為の本当にむずかしいところだなあといつも思ってしまいます。
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だから、本当は「なりゆき」に任せるしかないんじゃないか。
ここで話は一気に横道にズレるのですが、先日、映画『ゴールデンカムイ』を観てきました。
映画の中で、アイヌのおばあさんが、ごはんを食べるまえに、まずは自分の首の後ろにいる憑神に供物を捧げていて、それに感心した主人公の杉本が、その行為を真似るというシーンが映画でも描かれていて、とても強く印象に残っています。
この、アイヌの憑神の話が、今日のこの話のヒントにもなるなあと思ったのです。
というのも、映画を見た後しばらくしてから、落合陽一さんとアイヌ語研究者の中川裕さんの対談を見ていたのですが、
この憑神の話が語られた後に、中川さんがアイヌ語研究をしているのは「なりゆき」であって自分の意志ではないというふうに語られていて、本当にそのとおりなんだろうなあと思ったんですよね。
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この点、僕らは、人間が行為をするときには、必ず何かしらの自らの意志が存在すると思っている。
だから、「なぜそのような行動をした(する)のですか?」と他者に当たり前のように問いかけてしまうわけです。
もし自分が問われる立場だったら、必死でその理由を考えてしまう。
「気づいたら、そうしていました」なんて、面接のような場面で答えてみようものなら、すぐに落とされてしまいますからね。
だから、必死でその理由(つまり、行為前に確かに存在したであろう自らの意志)を後付けし、捏造しようとするわけです。
その行為を繰り返した結果、それを求められることがわかっているから、行為前にその意志をはっきりと思い描き、そのとおりに行動しようとしてしまうようになる。
そのうち、自然と「自らの意志→行為」の順で行動しているんだと自分自身も完全に思いこむようになったわけですよね。ここでひとつの「物語」の完成です。
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これは「一般意志」のような考え方も、まさにそうなんだと思います。
人間は意志があって始めて行動するんだと信じ込むから、まずはその「一般意志」というフィクションを立ち上げようとする。
そうじゃないと、理想的な社会が訪れないから。逆に言えば、結果ありき、なんですよね。
でもちゃんと観察したら、「ただ◯◯する」という状態のときにそこには意志なんて存在していないはずで。
行動してはじめて「あー、自分は◯◯がしたかったんだな」と気が付き、それにあとから意志がついてくるようなイメージが本来の意志概念だと僕は思います。
西田幾多郎の「純粋経験」の話や、最近頻繁に言及をしている「プラグマティズム」の思想なんかも、まさにそう。
ここで再び、以前もご紹介したことのある宇野重規さんの『実験の民主主義』から引用してみたいと思います。
一般意志の前提には「人間は意志があって初めて行動ができる」という考えがあります。他方でプラグマティズムによれば、行動のあとに「自分はこういうことを意志していたのだな。こういうことを自分はしたかったのだ」と、事後的に自分の意志がわかることもある。意志は絶対ではなく、むしろプラグマ=実践、行動のあとに、意志がついてくるという考え方です。
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意志という概念自体が、行為後にならないと、本来は立ち現れてきてはくれないものであるはず。
でも、多くの人は、これを後出しジャンケンのような感じがして、なんだかズルい感じがしてしまう。言い換えると、そのような解釈が無責任だと感じるように教育されているわけです。
それは、そういう価値観を学校教育を通じて刷り込まれてきてしまったからですよね。
でもこの教育は決して悪いことではなく、前にもこのブログに書いたことがあるけれど、そうしないと社会が立ち行かないからそうしているわけです。
つまり、この「意志→行為」の順番じゃないと、法律が一切機能しなくなる。責任主体、その論理が破綻してしまう。
だから、それは社会を構成させるためのある種のフィクションなんですよね。社会契約説や人権概念、あと紙幣なんかとまったく一緒です。
少なくとも、社会のルールがそれを基盤の上に成り立っているからと言って、それが私の行動においても「真実」だとか「真理」だとは思わない方がいい。
お金というのは、誰もが信じている共同幻想であるけれど、それ自体に価値があると思いこんだら、それは大きな間違いですよね。紙幣はあくまでただの紙切れです。
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だから話をもとに戻すと、アイヌ民族ように「自分が」ではなく「それは私の憑神が、◯◯をしたかったんだな」と考えることは意外と理に適っているように思うんですよね。スピリチュアルでもなんでもない。
自分の中にもうひとつ「他者としての意志」を立ち上げて、その意志に従うように行動すると、「遊び」のように振る舞えるんじゃないかということです。
なぜなら、自分は、なりゆきに従うだけの行動が取れるわけだから。
これに気がついた時「カムイ」の概念の意味、それがなんだか少しだけ理解できた気がしました。そのほうがはるかに人間らしく生きられる。
言い換えると、その憑神の意志に従う、私の意志ではないという考え方ができたときには「ただ◯◯をする」という状態に近づける。
そうすると、凡夫の僕らでも仏教の「遊戯三昧の境地」に少しでも近づけることができるのではないかと思います。
そんなことをモヤモヤと考えている今日このごろ。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。