先日、羽田空港に行ったら、「カームダウンスペース」なるものが設置されていました。

似たような取り組みだと、海外の商業施設では近年「クワイエットアワー」といった取り組みも存在するようです。

どちらも、人混みや雑踏の騒音が苦手な人々のためのもの。

それぞれの個性に合わせて「選べる自由」があるのはとてもいい流れだなあと感じます。

人間の違いを尊重した上で、みんながお互いに心地よく、有限の「共有財産」を利用することができる仕組みと言えそうです。

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思うに、これまでの社会では参加の仕方、その幅の自由度が極端に狭かった。

その狭さが、「ここまで登ってこい」というある種のハードルの高さとなり、そこに集まる人々の同一性を生み出していたのだと思います。

しかしその排他性は、近年の社会において逆にダサさとして際立つようになってしまいました。

渋谷の終焉なんかはその最たる例だと思います。

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話は少し逸れますが、先日読み終えた『赤の女王 性とヒトの進化 』という本があります。

この本の中で、性差における「差異」と「差別」の話が語られていました。

性別間に「差異」があることを認めることは、どうしても「差別」の視点につながりやすいと。

だから現代においても、男女の性差による「差異」はなかなか言及しにくい。

それよりも男女の「同一性」のほうを強く認めて、その同一性の中で、男女が同一条件を得られるように揃えていくことのほうが正しいとされています。

でも、それは誤っていると著者は主張します。そもそも、男女では「戦略」が全く異なるのだから。

「差異」が存在するということは、当然それぞれの「戦略」も異なるわけで、だからこそ戦略が違う者同士が、それぞれ心地よく暮らせるためにはどすればいいのか、より良い社会を作るためにはどうすればいいのかと考えることで、また別の視点がひらけてくる、と。

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この視点は、非常に共感します。

従来の社会では、一般的な社会人男性「ミスター・アベレージ」を想定して、社会の制度設計がなされていました。

それが現代では、男女揃って一般的な社会人男女「ヒューマン・アベレージ」に変えようとしているだけのように僕には思える。

でも、そうやって人間の同一性を強調すればするほど、そこから溢れてしまうひと(生き物)がまた新たに生まれてきてしまいます。

なぜなら、同一性を強調するということは新たな「境界線」を引くことと同義だからです。

それを防ぐためには、逆説的なのですが、境界線を曖昧にするほかないのだと思います。

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そして、日本人は古くから、この境界線の曖昧にすることを実践してきた。

たとえば、概念的に一番わかりやすいのは「縁側」でしょう。内でもあり外でもある場所、あるいはどちらでもない場所。

そこは屋内じゃないから、蛇やカエルなどの動植物がいても構わない。

そこは屋外じゃないから、人間が食事をしたり居眠りしたりしても構わない。

空間に限らず、そういう曖昧な領域が日本人の思想の中には常に存在していました。

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一方で、この境界線の曖昧さゆえに、日本人(日本語)は何が言いたいのか分かりにくいと、海外から批判されることがあります。

でも、それも当然のことです。だって、わざとそうしているのですから。

「自分の意見がはっきりしない」ということは、決してネガティブなことだけではないはずです。

むしろそうやって境界線を曖昧にすることで、「お互いの差異を尊重できる空間」がギリギリのところで保たれる。

欧米のように、その時代に合わせて境界線の内と外の議論をしていたら、絶対に辿り着けない境地だと思います。

だって、必ず時代の流れと共に境界線の外(今後はクローン、サイボーグ、AI、宇宙など)が生まれてくるのは必然なのですから。

これからの世の中において、実はとても大切な視点だと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。