民藝というのは、最初から存在するのではなく、その都度、時代ごとに発見されるもの。

時代によってその解釈は大きく異なります。だからこそ「思想運動」なんだろうなあとも思います。

このあたりは、今AIというテクノロジーがどんどん進化して、ありとあらゆるスキルが「民主化」という名の無価値化が進むんでいるから、余計に理解できるようになってきました。

以前もブログに書いたことがある話ではあるのだけれども、最近あらためて強く実感するようになってきたので、もう一度改めて深堀りしてみたいなと思います。


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この点、柳宗悦が提唱する民藝運動が盛んになったときは、産業革命によって機械による大量生産が可能になった時代。

だからこそ、それまで手づくりで行われていた「民藝品」の価値が、そのタイミングで見直されたわけですよね。

無もなき職人たちの手づくりの良さに、人々がハッとするようになった。

それは紛れもなく、機械がつくった下手物(ゲテモノ)、その比較対象物の登場のおかげだったわけです。

逆に言えば、それまでは、ありとあらゆるものが手づくりだったから「なんかいい」と思われていても、単純に埋もれていた。

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そして、今のAIによる産業革命もまったく一緒だと思います。同じ構造が、そこにはある。

つまり、これまでは一緒くたにされていた手づくりの文章や映像作品、その価値が改めて見直されるようになっている。

AIによって、その比較対象が生まれているからです。

で、僕が、その代表格だと思うのが「人間の声」です。

ありとあらゆるコンテンツがAIで生まれてきて、合成音声の進化の飛躍もほんとうに凄まじい。

人間が読むのと全く変わらないぐらいのクオリティの高さの合成音声が出てきたからこそ、逆説的に、いま改めて人間の声による朗読の価値を改めて感じている不思議があるなと思います。

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人間がアフレコしたり朗読したりすると、そこにちゃんと命が吹き込まれているなと感じる。

それは、耳という器官が、目という器官よりも、圧倒的に古い器官だからなのだと思います。

つまり、AIで作られたものによって目は騙せるけれど、耳は騙せない。

その証拠に人間の錯覚のほとんどはトリックアートに代表されるように、目によるものであって、耳による錯覚というのは意外と少ないなと感じます。

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でもこれも、今たまたまた発見されただけであって、もともと最初からすごかった。

ただ僕らが、それを意識的に知覚できていなかっただけ、です。

AIの合成音声が出てきて、人間の声と遜色がない比較対象が生まれたから、そのたった一ミリの差が「無限の差」に思えるようになったんですよね。

一瞬だけでは、もう見分けがつかないぐらいの微細の違いなんだけれど、でもそれこそが本物と偽物を隔てる、明確なそして絶対に超えられない壁でもあるわけです。

紙一重だけど、その紙一重以上の無限の距離がある。

近似値になり得ても、決して重なることはない、だからこそ民藝的に発見されるわけです。

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で、当然そんなものはスピリチュアルだと言われればそれまでだし、僕もそう思います。

これは100%、僕ら観る側、つまり人間側の「認知」の問題なんです。

当然、いつの日か圧倒的に技術が進化して、まったく同じ成果物が並べられたとして、人間の認知能力ではまったく見分けがつかない状態まで進化するはずです。

というか、むしろブレやユレがなくなり、工業製品のほうがクオリティは圧倒的に高くなるのと同じように、AIでつくられたもののほうが、クオリティは高くなるのは必定。

つまり、実用的価値は、AIが圧倒的に凌駕する。

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そうなったときには、あとは人間側が気にするか、気にしないか。その一点に尽きます。

そして、これはなにかに似ているなと思いましたが、きっと、プラスチック容器です。

プラスチック容器の取り回しの良さ、その安価であることも含めて一般的な容器よりも実用面は完全に勝る。

でも、やっぱり僕らはプラ容器に深い愛着など抱けない。どこまでいっても、プラ容器はプラ容器です。

でも、そこに優劣なんて存在しない。少なくとも実用面においては、です。

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それと似たようなことが、これからありとあらゆるジャンルによって起きる。

僕はまだ観られていないのですが、先日NHKで放送されていたクローズアップ現代に発酵デザイナーの小倉ヒラクさんが出演されていたそうです。

タイトルは「日本の“発酵食品”が世界でブーム    その陰で危機が」です。


ヒラクさんが普段からTwitter上で警鐘を鳴らしてくれていることが描かれていたんだろうなあと。

つまり「自分さえ良ければそれでいいのか、それとも、文化や共同体を守りたいのか。そこに、圧倒的な違いが生まれてくるよ」というお話です。

詳しくはヒラクさんの鬼バズしていた連投ツイートをご覧ください。

https://x.com/o_hiraku/status/1983723485265588740 

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で、とはいえここで全部ひっくり返すことを言うし、各方面に本当に申し訳ないけなと思うのだけれど、僕は日々の食なんて、最終的にはドラゴンボールに出てくる「仙豆」になればいいと思っている側の人間です。

だからこそ、このあたりはマジでむずかしいなといつも思います。

もちろん、他者と共に食卓を囲むときには美味しい手の込んだレストランの食事や、素朴な家庭料理は本当に嬉しいけれど、逆に言えば、それ以外の時にはいらない。

食における「丁寧な暮らし」的なものに対しての憧れも興味も一切ない。

仙豆が存在するなら、それを淡々と食していたい。

ひとりひとりが、従来的な丁寧な暮らしに執着すること以外に、豊かな食文化は本質的には守ることができないということ自体、頭ではわかっていても、

巡り巡ってそうやって文化や伝統が守られるということがわかっていても、なお、そう思ってしまう自分がいます。

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言い換えると、その因果関係は理解をしつつも、さすがにそこまでは自分には関係がない、と思ってしまうぐらいには薄情なヤツなわけです。

というか、関係がないことにしないと、素直に現代の世の中では生きづらいなとも同時に感じてしまう。

それはきっと、ガザに対する想いなんかとも一緒なんですよね。

明らかにあの戦争状態は間違っている、とはいえ現地に行って「反戦運動」なんてする気も一切起きない。その時間的余裕や、お金的な余裕もあるのに、です。

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さて、どうしたものかと思う。

ここでいつも本当に迷ってしまいます。

そして、このような葛藤が嫌だから、AIに全振りしたくなるんだろうなとも思います。

きっと過去の歴史のタイミングもそうだった。産業革命時も、バブル時も、IT革命時も似たようなことは何度も起きていて、その都度この葛藤が嫌だから、当時の人々は新しいテクノロジーの方に全振りしてきて、今の社会がある。

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で、ものすごく苦肉な策でもあり、そんなこと本当に可能なのかと問われるかとも思うのですが、その時に大事な姿勢というのは「AIに巻き込まれながらも、AIから距離を取る」ということだと思うのです。

つまり、AI的構造の奴隷になりながらも、その中での大事なものは決して見失わないこと。

それはいま僕らが、完全にスマホ的構造、スマホが加速させる資本主義の中に完全に巻き込まれながらも、その中でも人間にとって本当に大切なことは何か、そんな実存的な問いを重視しているように、です。

まさにこのWasei Salonで行っているようなことです。きっとそこにあたらしい価値が生まれてくる。

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僕らがやっていることは、よくよく考えるとおかしいのです。

スマホやインターネットが誕生したことによって生まれてきた実存的な問いを、スマホやインターネットを通して共有し、励まし合い、それぞれがそれぞれの持場で孤独に問い続けているような状態なわけですから。

客観的に眺めたら、何やってんの?という話です。

距離をとるか、巻き込まれるか、そのどちらかだろう、と思うはずなんです、本当は。

でも、現実問題、その立場に置かれると、それがいちばん納得できないといことがよく分かる。

それは戦時中に、世論が戦争に流れるのなら、戦争を表面的には肯定しながらも、反戦運動するしかなかったように、です。

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とはいえ、もちろんそうなったらもう手遅れかもしれないし、オーガニックなひとたちは必ずそこを主張してくるに決まっている。

でも、そういう原理的な考え方には、純粋に「でも、仕方ないじゃないか」とも冷徹に思ってしまいます。

つまり、時代の流れに抗いすぎずに、しっかりと抗っていきたいというのが僕のいちばんの本音です。

「理想を忘れない現実主義」的な観点って、つまりはそういうことなんだろうなと。

激流の時代の中でも、本当に大事なもの、ここだけは決して譲ってはいけない、というものを風化させずに残していく営みや過程。それこそが本当の意味で生きたままの文化を受け継ぐということの正体でもあると今強く思います。

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そして、世界には、実際にそういうものがあるし、それらは、そこに携わる人々の「したたかさ」によって支えられているなと思う。

たとえば、「京都」なんかは本当にわかりやすい。

四条を中心に資本主義丸出しのビル群、そこに群がるインバウンド観光客の人々。

でも、そこに京都の「いけず文化」のようなものも同時に存在するから、今も京都に何百年と続くお店なども同時に存在する、もちろん神社仏閣は言わずもがな、です。

もし京都が仮にオーガニックであることだけを追求していたら、言い方は非常に悪いですが、きっと既に奈良や島根県(出雲)のようになっている。

それはそれで、遺跡的価値としては本当に素晴らしいなと思いますし、僕も大好きなんだけれども、生きるしたたかさ、生きる強さは、やっぱり京都に軍配があがる。

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「ただじゃ死なない」まさに、「千と千尋」の湯婆婆的なしたたかさや、力強さ、生命力です。

宮崎駿が描く醜い老婆たちはいつだってそれを守っている。そして、それがあまりにも醜い姿の場合も多いから、人々からも忌み嫌われる。

でも、「こっち」だと思うんですよね、本当に生きるということは。

実際、シータや千尋は、そんな老婆たちに感化されて大切なものを見つけるわけですから。最近は、これが本当に大事だなと思うようになりました。

30代後半になってやっと、この重要性を理解できるようになってきた。

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背に腹は代えられない、それゆえに譲るところは譲らないとそもそも生き残ることさえできない。

でも同時に、虎視眈々と肉を切らせて骨を断つ機会も伺う。

京都にいくたびに、というか、京都の人々の二枚舌を自ら堪能させてもらうたびに、そのしたたかさ、清濁併せ呑みながら、本質を受け継いでいくことの価値、そのたくましさを感じずにはいられません。

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民藝的な価値を常に再発見しながら、そこで浮き彫りになっていく「本当に残していくべき文化や伝統」のような核心を守り、本当の意味で、それらを時代の激流の中で受け継いでいける人間になりたいなあと強く思う。

もちろん、Wasei Salonもそのための場として活用してもらいたいと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。