ChatGPTのオープンAI社が新しくローンチしたSora2にまつわるいざこざ、そのニュースを眺めていて思うことを今日は書いてみたいなと思います。


まず、これは天文学的なお金や権力が集まりすぎても、逆に「背に腹は代えられない」という状況に追い込まれてしまうという好例だなと思わされます。

お金があっても、お金がなくても、どちらの立場であっても、完全に背水の陣となる。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはそのとおり。そして、勝てば官軍、負ければ賊軍。

このようにどれだけ既存の法律で訴えられようが、既成事実をつくったもん勝ちというインターネット特有のムーブは、YouTubeで違法アップロードの前例をつくってしまったことが、あまりに大きいんだろうなあと思います。

当時、「コンテンツはすべてフリー(無料)になる」という話が大手を振って語られて、だから違法アップロードの動画も仕方ないだろうと、見過ごし現実こそが、今まさにこの状況を生んでいる。

でも、それで遅れてしまったこと、破壊されたことが一体どれだけあるのか。

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ただ、そんな無法地帯の状況に、世界中のユーザーが慣れてくれさえすれば、あとは法律がなんであれ、こっちのものと、オープンAIの代表のサム・アルトマンは考えているわけですよね。

そしてその対象が、子どもであればあるほど、良いとも思われている。

子ども達を騙すことに成功し、たった10年経てば、その子たちが今度は大人になって、その子達の常識が世の中の民意、つまり市場を左右するようにもなるわけだから。

その点、今回のsora2はTikTokのリプレイスを狙いに来たのは本当に賢いなと思います。

頭が硬く法令遵守、倫理観の高い大人ほどまったくついて来れない領域でもある。

本当にすべてが計算し尽くされている。

四隅を完全に取られて、これでもしたとえオープンAI一社が完全にコケたとしても、ビックテック、つまりアメリカ(の証券市場)がつくりたい世界に、世界は進んでいく。

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そして、繰り返しますが、このような状況は、YouTubeを許したから起きていることでもある。

当時のハック思考を許したからこそ、次のハック、次のハックと、どんどんズルズルと前例を踏襲されて、なし崩し的に変わっていくわけです。

これはたとえば、原爆だって、もともとは最初のひと殴りを許した社会が存在したからこそ生まれたわけですし、原爆を落とすこと、その正当性を生み出した原因でもある。

単なる怨恨からの復讐や、そのあとの十字軍のような暴力を伴う植民地支配的な啓蒙思想を許したから起きたこと。

もちろん、ソレを許せば将来、原爆を落とすことさえも正当化することいつながるだろうなんて、当時の偉い人たちの誰ひとりとして、考えていなかったことだと思います。

いや、気づいていたひとがいても「そもそも、その時代には自分は生きていないから、関係がない」というスタンスだったのかもしれない。

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ただ、ここから一気に話をひっくり返してしまうのだけれど、なぜか僕は、漠然とオープンAIとジブリの驚きの提携もあるような気がしています。

コロナ禍、リモートワークに使える壁紙を「常識の範囲でご自由にお使い下さい。」と無料で配布したように、ここに来てもう一度、sora2(AI動画)によって起きそうな予感。

何の根拠もないけれど、作務衣を着た鈴木敏夫さんとサム・アルトマンが並んで写真を撮ってそれが報道される日も近い気がする。

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もちろん、杓子定規に考えると当然、今のような状況法律(著作権)違反なのだけれども、長編アニメ映画とカニバルようでいて、実際にはカニバらない。

むしろ、若い世代にもう一度スタジオジブリ作品を知ってもらうチャンス(盛大な広告機会)と捉えることも、できなくはなさそう。

そして、鈴木敏夫さんなら「バルス祭り」のように、ユーザーに遊んでもらうことこそが「現代の広告」であるとも考えていそうだなと思うんですよね。(他の業界人なら絶対に考えないこと)

ジブリはもう日テレ傘下だからありえないかもしれないけれど、鈴木さんの最後の独断と偏見で、そんなウルトラCが起きても、何の違和感もない。

というか、それこそが稀代の天才プロデューサー・鈴木敏夫の手腕という気さえする。

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そして、さらに思うのは、むしろそうやってユーザーたちが散々AI動画で遊びまくった結果、「宮崎駿の手描きアニメーションのすごさ」を僕ら一般人が思い知るきっかけになると思います。

というか、実際、すでに最近AIのアニメ動画見ていて僕は手描きアニメを完全に見直している。

それは、AIがつくり出すアニメ動画が、あまりにも気持ち悪くて、1分と観ていられないからです。

新しい技術は比較的大好きなほうなのに、AIがつくるアニメ動画に対して一ミリもワクワクできなくて自分でも本当にビックリしています。

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今後どれだけ技術が進化して、これが極端な話、嗅覚や触覚、味覚まで含めた今の世界と何ら一切遜色ないものをAIがつくれるようになり、そのAIがつくりだした世界をまるごと体験できたとしても、まったく没入できずに、引いている自分が容易に想像できてしまう。

逆に、この感情はなんだろうなとも同時に思います。

「まがいもの」「ニセモノ」とかそういう感覚や次元でもなく「そこには仏性がない」みたいな感覚が言葉としては一番近い気がしています。

でも、現代において、大っぴらにそんなこと言ったら完全に変人扱いだし、ただの老害、ルサンチマンだとしか思われないから、ただ黙って今の流れには手を合わせて拝むほかない。

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だからこそ、AI動画が否応なくタイムラインに流れてきてしまうからこそ、いま改めてジブリ作品を見直して、この吐き気のようなものを浄化したくなる。

つまり、逆説的にジブリがものすごく観たくなっているし、実際に見たら「やっぱり宮崎駿は、すごい!」と感じるようになるはずなんですよね。

鈴木敏夫さんが、いたるところで語っているように「トトロのお腹のうえで、メイちゃんが跳ねるシーンは宮崎駿にしか描けない。どれだけ優れたアニメーターであっても、あのトトロのお腹の感じは描けないんだ。」というあの話にもまさにつながる。

そして、アニメーションの語源はもともと「命を吹き込む」ということであり「キャラクターだけがあってもダメなんだ、そこに命を吹き込まないと!」と鈴木さんが口酸っぱくいい続けている理由も、今なら本当によく分かる。

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命を吹き込めるのは、同じく命ある人間にしかできない所業なのでしょうね。

そして「仏性がない」とは、つまりそういうことだと思います。あの宮崎駿本人が描くトトロのお腹に宿っているもの、宮崎駿だけが吹き込める命、それがまさに仏性。

同様に、高畑勲監督しか描けない「エロス」もある。それを僕らは、すでに漠然と感じ取っているわけです。

でも、素人の僕らは、それが何かはわかっていない。漠然と「なんかいい」と思っているだけ。

でも、AIアニメによって、逆説的に理解できるようになりつつあるんだろうなあと。

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たとえば似たような話で、テキストの生成AIが登場後、命が吹き込まれて、魂が込められている文章の違いが、次第にわかるようになった。

今このタイミングで、僕が純文学や、古典小説のおもしろさにどハマリしているのは、決して偶然ではないと自分では思っています。

夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、村上春樹、カズオ・イシグロなどの魂の込め方。

生成AI時代にならないと、僕ら凡人にはこれは本質的にはわからなかった。

コレまでの人々が漠然と感じていた「なんかいい」が、AIのおかげでこのように明確になって輪郭がはっきりしたということです。

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変な話だけれど、団地を大量生産できるようになったことで、そのときに改めて日本の伝統建築や茶室の価値が再発見されたように、です。

民藝運動もまったく一緒。それまではありとあらゆるものが手づくりだったから「なんかいい」と思われていても、それは埋もれていた。

でも、産業革命によって大量生産が可能になったからこそ、その「民藝品」の価値が見直されたわけですよね。

無もなき職人たちの手づくりの良さに、ハッとするようになった。

それは、機械がつくった下手物(ゲテモノ)の登場のおかげなわけです。

いまのAIもまったく一緒。

これまでは一緒くたにされていた手づくりの文章や映像作品、その価値がこれから改めて見直されるようになる。その比較対象が生まれるわけだから。

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他にも、人間が読むのと全く変わらないぐらいのクオリティの高さの合成音声が出てきたからこそ、朗読の価値を改めて感じている。

そこに命が吹き込まれているなとありありと感じる。

たとえば、僕が大好きなナレーター・西村俊彦さんの朗読なんて、最近は本当にすごいと感じます。

でもこれも、もともと最初からすごかった。ただ僕が、それを意識的に知覚できていなかっただけ。

でもいま、AIの合成音声が出てきてその比較対象が生まれたから、そのたった一ミリの差が無限の差に思えるようになったというわけです。

一瞬であればもう見分けがつかないぐらいの微細の違いなんだけれど、でもそれこそが本物と偽物を隔てる明確な、そして絶対に超えられない壁でもある。

紙一重だけど、その紙一重こそに無限の距離がある。近似値になり得ても、決して重なることはない。

AIには、99点まで出せたけど、100点は無理だった、みたいな話です。

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で、当然そんなものはスピリチュアルだと言われればそれまでだし、僕もそう思います。これは100%、僕ら観る側、つまり人間側の認知の問題です。

当然、いつの日か圧倒的に技術が進化して、まったく同じ動画が並べられて、見分けがつかない状態までいくはずです。

でも、ここで見落としてはいけないことは、人間の認知の問題だからこそ、ここで必ず「結婚詐欺問題」が起こるんだということ。

そして、見分けがつかずとも、どちらかがAIだとわかった時点で、AI側に対して僕らは吐き気を感じるはず。

ちなみに、結婚詐欺問題とは、東浩紀さんが提唱されているお話で以前もご紹介したことがありますが、最愛の相手が結婚詐欺狙いの詐欺師でしたとわかっても、変わらずに愛し続けられるほど、人間はできていないということです。

その裏切り(ネタバレ)をされた時点で、それまでの過去の甘い記憶もすべて、ニセモノに変わってしまう。

その裏切りの起算点が、出会いの日まで遡る、そのような記憶の改竄を無自覚に行ってしまうという現象を差しています。

そして、これは完全に人間という生物が持っている、認知のバグです。

AIはそんなことは決して感じない。AIが人を愛せるかどうかは定かではないですが、仮に人を愛することができるようになったとして、その最愛の相手が、実は詐欺師でした、となっても絶対に怒らないでしょうし、淡々とそれまで通りのコミュニケーションを行うことができるはず。

でも人間には、相当に達観し解脱したような人物でない限り、それは不可能です。

福沢諭吉はそれを人間特有の「欲」と呼んだわけですよね。


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もしかしたら、このAI動画が当たり前の世界に生まれてくる子どもたちにとっては変わってくる可能性の余地はあれど、少なくとも現代人は、死ぬまでこの認知の呪縛のなかにいる気がしています。

とはいえ、若く感度が高いひとたちほど、僕たち昭和世代以上に、やっぱりリアルに引き戻されている現状をみると、人間の根本的な習性なんだろうなあとも思う。

たぶん、AI作品とは一生この「結婚詐欺問題」のジレンマと向き合わざるを得ない。

当然、その配分は変わりつつ、どこまでも「手づくり」であることを尊ぶはず。必ず、描いている人物の人間性を観るはず。

たとえ、作者を知らなくても、作品の本当に細かなところから、読み取るはず。

作者が吹き込む命、魂、仏性を、です。

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自分は団地に住んで、大量生産品を大量消費をするようなライフスタイルをおくりたいか。

それとも、命が吹き込まれた仏性のある人間の手づくりを、ちょっとだけ味わうようなライフスタイルを送りたいのか、その違い。

僕は、AIは全面的に肯定をしながらも後者を選びたい。

というか、後者を目一杯味わう人生にするためにこそ、AIを用いて、無駄な仕事をことごとく効率化していきたい。

それは現在も、洗濯機やルンバのようなお掃除ロボットを、最大限活用しているように、です。

意外と語られないけれど、今とても大事な観点だと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。