先日、佐々木俊尚さんがTwitter上でシェアしていて、読んだ以下のまとめ記事。


佐々木さんはこのまとめ記事に対して「同じ映画でもマーベル好きと単館系好きではまったく話が合わない。音楽も書籍もそうだけど、文化の島宇宙化が進んでる。」というコメントを添えていました。

これは本当にそう思います。

そして、自分もこの現象を最近よく実感するなあと。

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ただ、こんな場面に遭遇したときこそ、僕はワクワクしてくる。

そして、相手を別界隈の人間だと断定するのではなく、映画ソレ自体に話を移し「なぜ映画館に行きたくなるのか?」など、丁寧に相手の話を聴いていくと必ず開かれる回路があるなあとも同時に思います。

お互いに、「映画」という同じフォーマットに興味関心を抱いていることは自体は間違いないわけですから。

具体的な作品や俳優などにフォーカスすると完全に分断してしまうけれど、もう少しお互いに共感できるようなレイヤーにおいて、話題の粒度自体を、上げたり下げたりするようなイメージが大切だなと感じます。

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そして、そうやって丁寧に相手の話を聴きながら、映画のどこにおもしろみを感じているのかを深堀りさせてもらっているうちに、最後の別れ際「おすすめ作品はなんですか?」とふいに聴かれて答えてみると、次会うときまでに、その作品を観てきてくれたりもする。

そんなとき、何かこれまでとはまったく異なる回路が開いたなと感じる瞬間でもありますし、そんな実体験をするたびに、レイヤーを変えて共通項を探るのって改めて大事だなあと思わされます。

あと、純粋に、チャンスだなと思うのです。

全く別の興味を持っているひとと、出会えたことによって、そこに橋を架けてみようと試みる、そんな実験的な行為それ自体の楽しみなんかもある。

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で、今日ここで強調したいのは、よく語られるような「相手との共通項を探りましょう!」という話だけではないです。

むしろ、それが一番よくないことだなと僕は思います。

このあたりは非常にわかりにくくて申し訳ないと思うのですが、共通項を探して、そのうえでなお、違いを楽しめるところまで持っていくのが、とても大事だなと最近よく思うんですよね。

この点、一般的にはオタク文化や推し活のように、とにかく相手と「同じ」ところばかりを探そうとしてしまいがち。

そして、同じところにどんどんと共感していって、そのうえで違うところを見つけてしまうと、もはや目も当てられない悲惨な状態になる。ときには「対話罪」なんて変な言葉も生まれてくる。

そして今度は、真逆に振り切って政治闘争のように、とにかく対立や分断に向かう方向。こちらも、推し活と一緒で、現代を象徴する事柄ですよね。

つまりどちらの場合も現代病だと言えるし、その根本は全く同じところに根ざしているなと思います。

「相手との共通項を探りましょう!」というコミュニケーション術が、一般化してしまった結果であり、その成れの果て。

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僕は、そのどちらも間違っていると思うのです。

言い換えると、両者の間にある「同じ」を強調しすぎるわけでもなく、「違い」を強調しすぎるわけでもない。

本当の意味で、お互いの違いをおもしろがり、楽しみ合い、尊重するためにこそ、一旦「同じ」のレイヤーまであげて、そこからまた「違い」へと下ろしていく事が大事。

そして、推し活にも、政治にもしないこと。その経緯と配慮と親切心が大事だということを、僕は繰り返し言及し続けたいなと強く思います。

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たとえば「本」というフォーマットで言えば、本が好きな人は、全員「目の物語」が好きなひとが多いなという印象です。

でも僕は、オーディオブックの、かつ「耳の物語」が好きです。

その文脈で「本」が好きなひとは、本当にまだまだ少ない。

ほとんど存在しないといっても過言ではない気がします。でも、紙の本よりもオーディオブックが聴きやすい人の中には、きっとそういうひとも多いはず。

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最近、このひとはその魅力をわかっていらっしゃる、なおかつ僕なんかとは比べ物にならなぐらい解像度高く理解しているなと感じたのが、オーディオブックカフェでもゲストで出演してくださった、文学紹介者の頭木弘樹さん。

でも、逆に言うと、頭木さん以外はほとんど出会ったことがない。

たとえ同じ書籍、同じタイトルの本をお互いに読んでいても、やっぱりどこかズレを感じる場合が多い場合が多く、これはこれで孤独だなと感じる瞬間でもあるなあと。

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ただ、矛盾するようですが、一方でだからこそ、対話が楽しくなるとも同時に思うんですよね。

目で読むタイプと、耳で聴くタイプの対立で言えば、たとえば最所あさみさんと僕なんて、本当にわかりやすく対立しているなと毎回対話するたびに思う。

でも、お互いに敬意を抱きながら、そして一旦「本」というレイヤーまであげましょうという暗黙の了解をお互いし合っているからこそ、まず最初に同じところを見つけられる。

その開かれた回路を頼りにして、それを命綱のように見立てながら、僕らはお互いの「違い」の部分を深く理解し合える状態にたどり着けているなあと実感します。

これがもし僕らが「同じ」ばかりにフォーカスしすぎると、きっと最初から互いに別界隈の人間だと見做しているはずです。一方で「違い」ばかりにフォーカスしていたら、絶対に相容れない状態になり、バチバチに喧嘩していると思います。

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この点、今日のお話に関連して、以前もご紹介した平野啓一郎さんの新刊『文学は何の役に立つのか』という本の中に、とても素晴らしい一節がありました。

今日の内容とも見事にリンクすると思うので、少し本書から引用してみたいと思います。

僕たちはある何か一つのことを複数の人間で決めなければいけない時は、多様性が前提である限りは、必ず誰かの意見が通り、別の誰かの意見は通らないことになります。その非対称性の中に権力の問題があるわけですけれども、ドストエフスキーは、討論によって論破して、人の考えを変えさせるのではなくて、親密なコミュニケーションの中で、おのずと愛する人の考えが自分の考えに混ざってゆくという場面を描いています。ドゥーニャとスヴィドリガイロフ、ソーニャとラスコーリニコフなどがそうです。そこに僕たちは対話というものの可能性を見出すことができるのではないかと思います。


まさにこのスタンスが大事だし、文学にはソレが描かれている場合が多いなと感じます。

特に、ドストエフスキーの物語には、確かにこのような展開が多いなと感じる。それが世界中で、未だにドストエフスキーが読まれている理由でもあるはずです。

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これこそ、群像劇の中で描かれているポリフォニーだと思うし、実際、平野さんも上記の文章に続けて、

「僕たちは、政治的な首尾一貫した主体として討論するよりも、むしろ日常的な、人間的な経験の中で親しみを覚えて、互いのことを尊敬し合う中で、おのずと自分の意見も変わることがある。その変わった意見が、自分の政治的な意見に昇華されていくというプロセスが、この分断の時代に非常に大きな意味を持っているのではないかと思います。」と書かれていました。

平野さんご本人が、SNS上においてこのような態度を本当に深く実践されているのかと言えば、少々疑問が残る余地もあるけれど、でもここで書かれている内容自体は、本当に圧倒的に正しいなあと僕は思います。

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お互いに「違う人間」であるということは間違いない。

でもそのときも、なんだかお互いに「あー、人間だ」という腹落ち感も生まれてきて、少なくとも「外敵」じゃなくなるんですよね。

思想も趣味も、何もかもがまったく相容れないけれど、私達は同じ人間だという、深い実感みたいなものを得られるから不思議です。

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あと卑近な例で、最近の人気の小説であれば、今年の本屋大賞を受賞した『カフネ』とかもそうですよね。

あの本には、2人の女性が主人公として出てきますが、それぞれまったくもって、性格も趣味も趣向も、そのすべてが異なる。

そして、最初の出会いのシーンは、お互いに最悪だったわけです。

でもそこから、共通の人間を通して、お互いの共通点を見出し合い、食事と掃除、それぞれ別々の得意を「家事」というレイヤーまで一度引き上げてみた。

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もちろん、最終的に価値観が同じになるとか、お互いの思想を理解し合うとか、推し活的な「共感」みたいなものを抱くわけでもないのだけれども「それでも私たちは共にいることができる」ということを、素直に発見することができる。

それが「カフネ」という言葉の意味を用いて、言い表したかったことなのだと思います。

本屋大賞受賞作『カフネ』は、現代版のアンパンマン。

このカフネ的な意味での、共にいる、そんな可能性を物語として提示してくれている作品だからこそ、これほどまでに今人気の作品になったんだろうなあと思います。

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つまり、このカフネ的、ドストエフスキー的な「共にいる」という状態は、やっぱり小説の中でしか描くことができないし、文学を通して描いてもらわないと、僕らも深く納得することができない。

やっぱり、そこには何かしらの「物語」が必要だし、物語になるからこそ、論理では理解できないようなことであっても、僕らは頭を通り越して、身体で腹落ちすることができるんだろうなと思うんですよね。

そして、物語という形式において著者やキャラクターたちが「着いてきてくれるから、だったら行きましょう」というそんな「勇気」も、読者のうちに自然と湧いてくる。

ただついていくだけの「沈黙」が呼び起こす勇気。 

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ここに物語や対話の可能性を強く感じます。

過度に「同じ」を強調する推し活と、過度に「違い」を強調する政治、それらとは全く異なる第三の道として、これが今とっても大事な姿勢だなと。

もちろん現代において「文学が一体何の役に立つのか」という話でもあるし、いまのような時代、こんなご時世だからこそ、文学が求められているということも、どこか感覚的、直感的にみなさんにも伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。