『葬送のフリーレン』の「ヒンメルならそうした」という言葉について、最近ずっと考えてきました。
最初は、ただ素直に「いい言葉だな」と思っていたのです。
ヒンメルのように、誰かの記憶の中に残り、その人の行動をあとから静かに支えていく存在。そういう人間のあり方は、たしかにとても美しい。
でも一方で、この話をあまりにもまっすぐに「美しい話」として語ろうとすると、どこかで急に気持ち悪さのようなものが立ち上がってくるんですよね。
それはたぶん、ヒンメルという人物そのものが気持ち悪いからではない。
むしろ、ヒンメルを語るこちら側の欲望みたいなものが、すぐに気持ち悪い方向へと流れていってしまうからなのだと思います。
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たとえば、「自分にもヒンメルみたいな人がいてほしかった」と思ってしまう。
「こういう人に導かれたかった」とか「自分の人生にも、こういうメンターが必要だった」とか、そんなふうに感じてしまう。
もちろん、その気持ちはすごくよくわかります。僕自身も、どこかでそう思っている。
でも、その瞬間にヒンメルは、かなりカンタンに「白馬の王子様」になってしまう。
こちらがまだ言葉にできないものを先に察してくれて、こちらが求める前に必要なものを与えてくれる存在や、こちらが未成熟なままでも、その未成熟さごと包み込んでくれて、こちらの人生の意味を、外側から見つけ出してくれる存在。
なおかつ、その振る舞いを自分が真似すればいいのだと思わせてくれる相手というような。
こう書くと、これはほとんど、日本人の「甘えの構造」そのもののようにも思えてきます。
相手に察してほしい。自分の中にある価値を誰かに見つけて褒めてほしい。
この欲望は、ものすごく人間的なもの。そして、たぶん日本語圏ではかなり根深いものでもある。
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もちろん近代以降、とくにフェミニズムの思想や自己啓発のなかで、「誰かに救われるのを待つな」「自分の人生は自分で選べ」というメッセージは、とても重要なものとして語られてきました。
それは間違いなく必要な言葉だったと思います。
誰かに見つけてもらうことを待ち続ける人生は、簡単に支配される人生にもなってしまうからです。
「私を救ってくれる人」を求める欲望は、いつの間にか「私を所有してくれる人」を求める欲望に変わってしまうこともある。
だから「白馬の王子様を待つな、自分の足で立て」という言葉には、たしかに大事な倫理がそこにある。
でも、ゆえにヒンメルのような存在を素直に「美しい」と受け取ろうとすると、どこかで後ろから疑念が刺さってくるのだと思います。
これって結局、また「理想の王子様」や「理想のメンター」を待ち望む話になっていないのか…?
このモヤっとした感じが、ヒンメルについて語るときには、どうしてもつきまとうわけです。
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ただ一方で、『葬送のフリーレン』という作品がすごいのは、その危うさをたぶん十分にわかったうえで、それでもなお「王子様的なもの」「メンター的なもの」を描こうとしているところだと思います。
ここで僕は、「大文字の王子様」と「小文字の王子様」という補助線を引いてみたくなります。
大文字の王子様とは、私を救いに来てくれる存在です。
完成された姿で、私を見つけてくれる。私を連れ出してくれる。私が言葉にできない願いを、先に叶えてくれる。
いわゆる白馬の王子願望論そのものです。
これはとてもわかりやすい。そして同時に、とても危うい。
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一方で、小文字の王子様は少し違います。
小文字の王子様は、いま目の前に現れて、私を救い出してくれる存在ではない。
むしろ、もうすでにそこにはいない。あるいは、その場では何をくれたのか、よくわからない。
大切なことを言われていたのに、そのときの自分にはほとんど意味がわからなかった。
でも、時間が経って、別の誰かと出会って、似たような場面に立たされて、ふとした瞬間に思い出してしまう。
そんなふうに、あとからしか立ち上がってこない存在。小文字の王子様とは、たぶんそういう存在なのだと思います。
そして、王子様に限らず、師匠やメンターもまさにそう。『葬送のフリーレン』で言えば、大魔法使いフランメの存在もまさにそうですよね。
向こうから完成された救済者としてやってくる人ではない。
こちら側が、あとから何度も意味を受け取り直すことによって、ようやく「あの人は自分にとって王子様(メンター)だったのかもしれない」とわかるような存在。
つまり、小文字の王子様は、受け手の主体性なしには成立しえない。
ここが決定的に、これまでの大文字の王子様像とは異なるわけです。
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そして、ヒンメルは明らかに後者です。
『葬送のフリーレン』が本当に巧みだなと思うのは、ヒンメルを最初から死者として描いているところです。
もしヒンメルが現在進行形でフリーレンを導き続ける存在だったら、この物語はかなり危うかったと思います。
理想の男性に導かれる女性の物語。鈍感な主人公を、すべてをわかっているメンターが教え導く物語。
そんなふうに、未成熟な者を、成熟した者が救う物語に成り下がってしまう。
でも、ヒンメルは物語の中にはもういない。フリーレンは、ヒンメルに答えを聞くことができない。もう一度、承認してもらうこともできない。
「これはどういう意味だったのか」と直接本人に確認することもできない。
ただ、受け取り損ねたものだけが残っている。
だからこそ、新たな旅が始まるわけですよね。
『フリーレン』は、ヒンメルに救われる物語ではない。
ヒンメルから受け取り損ねたものを、あとから何度も何度も受け取り直していく物語なのだと思います。ここが本当に大事なポイントだなと。
それゆえにフリーレンは人間ではなく、エルフとして圧倒的に長寿の存在として描かないといけなかったんだろうなと。
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「ヒンメルならそうする」という言葉も、ヒンメル本人がフリーレンに命じているわけではありません。
ただ、フリーレンの中に残ってしまったものが、時間を経て、別の場面で、別の意味を持って立ち上がってくる。
その意味では、ヒンメルはフリーレンを救っているというよりも、フリーレンの中で何度も読み直されているわけです。
そして、フリーレンもまた、ヒンメルという存在を一度で理解しているわけではない。
花畑を出す魔法も、くだらない寄り道も、何気ない人助けも、その場ではよくわからなかったものが、あとから少しずつ別の意味を帯びていく。
「あのときの自分は、こう受け取っていた。でも、今なら少し違ってこう見える」と、何度も何度も、意味を更新していく。
その意味で、フリーレンの旅は、ヒンメルという人物を理解する旅であると同時に、ヒンメルを理解できなかった自分自身を、何度も何度も訂正していく旅でもある。
人間の人生はよく「旅」に喩えられますが、まさにこれは人間の人生の構造そのものです。
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もうひとつ大事なのは、ヒンメルが自分の行為をその場で回収しないことです。
「これは君のためにやっているんだ」
「いつか君にもわかる」
「この優しさを覚えておいてほしい」
ヒンメルがそんなふうに言ってしまった瞬間、それはたぶん贈与ではなくなってしまう。
恩着せや教育的なふるまい、または相手を支配することになってしまう。
でも、ヒンメルはそれをしない。
もちろん、ヒンメルを完璧な人間として描きすぎる必要はないと思います。
彼には彼なりのナルシシズムもあるし、いたるところで銅像を残したがる悪い癖もある。自分の姿を記憶に残そうとする欲望もある。
でも、それでも彼は、自分の行為の意味を、その場で回収しきらないわけです。
相手に「わかれ」と迫らない。「俺の優しさを受け取れ」と野暮なことも要求しない。「君はいつかこの意味を理解するべきだ」とも決して縛ってこない。
ただ、やりたいからやる。残したいから残す。そして、あっさりとその場から立ち去ってしまう。だから、あとから、贈与として立ち上がる余地がそこにある。
ここが、ヒンメルを大文字の王子様にしないための、とても重要な要素なのだと思います。
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でも、ここでまた難しい問題が浮上してくる。
『フリーレン』という作品が、どれだけ丁寧に小文字の王子様を描こうとしても、読み手の側はそれをすぐに、大文字の王子様へと変換してしまうということです。
「私にもヒンメルがほしかった」
「こういう人に導かれたかった」
この物語が美しければ美しいほど、どうしようもないほどに、そう思ってしまう。
つまり、小文字の王子様の話をちゃんとしようとして、ソレが成功すればするほど、すぐに大文字の王子様の構造に回収されてしまう。
ここに、僕はこの作品をめぐる一番大きなジレンマがあるように思います。
そして、それは作品の問題というよりも、読者側の読みの問題なのだと思います。
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ただ、ここで話を終えてしまうことにも、僕はまた別の違和感があります。
このあたりは本当にややこしくて、なおかつかなり面倒くさくてごめんなさいと思います。
ここまで書いてきたことは、たぶん間違っていない。
ヒンメルを「白馬の王子様」として求めてしまうことには危うさがある。そこには明確な、日本人の甘えの構造がある。
でも、でもですよ。
本当に、大文字の「白馬の王子様」を求めてはいけないのか。誰かに迎えに来てほしいと願うことは、そんなにも間違っていることなのか。
逆に言えば、自分の力ではもう立ち上がれない人に向かって、「自分で受け取り直せ」「自分の足で歩け」「自立しろ」と迫ることは、本当に正しいのか。
ここが、僕には本当によくわからない。
観念の上では、自立は圧倒的に正しいし、きっと美しい姿でもあるのだと思います。
でも、その正しさは、ときにあまりにも強者の言葉になってしまう気もします。
実際には、全員がそんなふうに自立して生きられるわけではない。むしろ、世の中のかなり多くの人は、他者に依存しなければ生きていけない。
誰かに見つけてもらわなければ、自分の価値を信じられない人たちがいる。誰かに迎えに来てもらわなければ、その場所から動けない人だっている。最初のフリーレンがまさにそうだったように、です。
そういう拗ねている人たちに向かって、「白馬の王子様願望は危険だ」とだけ言うのは、あまりにも冷たい。
人間は、そんなに強くない。
「誰か、私を見つけてください」
「誰か、ここから連れ出してください」
そう願ってしまうことは、たしかに甘えなのかもしれないけれど、でもそれは同時に、祈りでもあるのではないかと思うのです。
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このあたりで、僕は親鸞の絶対他力のことを思い出してしまいます。
白馬の王子様のキングオブキングスは、どう考えても阿弥陀ですから。
もちろん、これはかなり強引な話で、親鸞の絶対他力と、現代的な白馬の王子様願望を、簡単に同じものとして語ることはできません。
むしろ、それを安易に重ねてしまうことは危険だとも思います。
絶対他力とは、自分に都合のいい誰かが、自分の願望通りに救いに来てくれるという話ではないはずですから。
でも、人間は自力で救われるほど強い存在なのか、という問いは、ここにたしかにつながってくるような気がするんですよね。
自力でどうにかできると思っている、その自力の中にこそ、深い思い上がりがあるのではないか。
親鸞が見ていたのは、たぶんそういう人間の「どうしようもなさ」だったのだと思います。
自分の力で正しくなろうとすればするほど、自分の正しさに溺れてしまうし、自分の力で救われようとすればするほど、救われるに値する自分をつくろうとしてしまう。
自分の力で自立しようとすればするほど、自立できない人間を見下してしまう、そんな人間の愚かさ。
そう考えると、白馬の王子様願望を「甘え」として切り捨てることにも、別の危うさがある。
ここが本当にむずかしいところだなあと。
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だから、僕はこの話をきれいに終わらせることができなくて、いま猛烈に困っている。
ヒンメルのような存在を、白馬の王子様として欲しがってしまうことには、たしかに気持ち悪さが残る。
でも、その願いを幼稚なものとして嘲笑することもできない。
誰かが迎えに来てくれることを、完全に諦めてしまった世界もまた、かなり残酷なわけですから。
この割り切れなさを、割り切れないまま引き受けるしかないのかもしれない。
そんなふうに、わからないまま持ち帰ることが、たぶんこの作品にいちばん近い受け取り方なのだと思います。
答えを出してしまうと、それがたとえどんな答えであっても、また別の大文字に変わってしまう。
『フリーレン』が描こうとしているのは、どちらかを選ぶ話ではなく、たぶん、選べないままで歩く、旅していくという話なのだろうなあと。
フリーレンは、ヒンメルから何かを受け取り直しているけれど、それを最終的な「答え」にはしない。
受け取り直した端から、また別の意味が立ち上がってきて、また訂正される。
その揺れ続ける運動の過程そのものが、きっとひとつの答えであると。
僕も、わからないまま、しばらくこの話を抱えて、実際に最後までこの物語を読み終えてみたいなと思っています。
それまでちゃんと長生きしたい。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
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