先日、Wasei Salonの中で「時間の作り方」という話題が出たときに、ものすごくいいやり取りがありました。

「長編小説にうまくはまると、時間が伸びる気がする。」

「いや、没頭するとむしろ時間は溶けていくのではないか。」

「でも、そのさらに奥に入ると、一日の肌感覚が二十七時間くらいになる感じがある。」


この話って、わかる人にはすごくわかると思うのです。僕は本当に素晴らしい言語化だなあと思いながら読みました。

この内容が、「問いの部屋」の仕様上、24時間だけで消えてしまうのは非常にもったいないので、この内容から個人的に考えたことをこのブログにも残しておきたいと思います。

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この点、たしかに長編小説に没頭している最中の感覚だけを切り取れば、時間は一気に雲散霧消していきます。

時計を見たら「え、もうこんな時間なのか」となる。

だから普通に考えると、時間がなくなった体験のはずです。

でも、不思議なことに、その日の終わりに振り返ると、なぜか一日が妙に長いと感じられる。

ちゃんと生きた、という感じがするわけですよね。時間を使ったはずなのに、むしろ時間が増えたように思ってします。

この逆説って本当にあるよなあと思うし、「時間」というものの本質において、かなり大切なことを含んでいる気がするのです。

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いま世の中で「時間を作る」というと、たいていの場合、予定の詰め方の話になりがちです。

無駄を減らすとか、朝活するとか、通知を切るとか、タスク管理をどうするとか。

もちろんそれはそれで、大事です。

僕だって、そういう工夫に助けられているところはかなりある。そして、AIが得意なことは、まさにこの時間の捻出の仕方だと思います。

ただ、ずっと引っかかっていたのは、そういう話の多くが、時間を管理するという話ではあっても、時間を本質的に増やす、豊かにするということには、つながってはいないということです。

AIを活用し、生産性を高めて、空き時間はちゃんとつくれる。でも、空き時間が増えたからといって、人生が長く感じられるとは限らない。

言い換えると、それっていうのは、あくまで空き時間を増やし、投資できる原資(種銭)を増やそうという話に過ぎない。未来に期待(自分にとっての豊かさ)を丸投げしているだけ。

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予定が少ない日なのに、気づけば一日が一瞬で終わっていることがある。

逆に、やることは多かったのに、なぜかその日は長く、濃く、記憶に残っていることもある。

では、この違いは一体何なのか。

ここで思い出したくなるのが、クロノスとカイロスという区別です。

こう書くと急に哲学っぽくなって抽象的になってしまうので、あまり説明っぽくはしたくはなく、ざっくり言えば、クロノスは時計で測れる客観的な時間、カイロスは主その人個人の中で生きられる主観的な時間、くらいに捉えてもらえればいいと思います。

で、僕らは、クロノスばかりを日々気にしている。

あと何分あるのか。何時までに終わるのか。どれだけ短縮や圧縮ができるか。

でも、本当に欲しい時間感覚は、そこなのだろうか、と。

欲しいのは、ただの空白ではなくて、「今日は、ちゃんと生きたな」と感じられる時間のほうであり、その実感なのではないか。

そう考えると、時間を増やすために僕らが本当に伸ばしたいのは、クロノスではなく、カイロスのほうなのだと思います。

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このことは、長編小説を読んでいるとよくわかるというのも、本当にそのとおりだなと。

SNSをなんとなく眺めていた朝と、長編小説に深く入っていけた朝は、同じ一時間でもまったく質感が異なる。

前者は、情報はたくさん入ってきます。でも、振り返ると不思議なくらい何も残っていない。時間が細かく砕かれて、こぼれ落ちていった感じがする。

一方で、長編小説に没入していた時間は、そのあいだ、むしろクロノスの時間を失っています。

効率だけ見れば、かなり悪いわけです。要約だけ知りたいなら、そんなにページをめくる必要はないはずです。AIに聞けば一発ですから。

それなのに、長編小説に没入すれば、そのあとの一日は妙に長い。小説の世界へ深く沈めた日は、その日全体に奥行きが出てくる。

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たぶん僕らは、情報をたくさん処理したいわけではないのだと思います。

ほんとうは、密度の濃い時間を生きたい。カイロスをもっともっと濃くして、深く実感したい。それをするためには、沢山情報を処理する必要があったのが、これまでの時代だったというだけに過ぎない。

ここを取り違えると、効率化はどこまでも加速するのに、人生の肌感覚はどんどん短くなる、ということが起きてしまうと思います。

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で、この感覚は、子どものころの夏休みを思い出すとさらにわかりやすいはずです。

子どものころの夏休みって、どうしてあんなに無限の時間に感じられたのか。

実際の日数は決まっているのに、体感としては果てがなかった。一日が長く、しかもひとつひとつの場面が濃かった。

あれは、単に子どもだから暇だった、というだけではないと思うのです。

まだ世界が既知のもので埋め尽くされていなかった。いちいち少しだけ「未知」だった。

センス・オブ・ワンダーに満ちていた、と言ってもいいと思います。

世界を「もう知っているもの」として処理していない割合が高かったからこそ、結果的に時間が伸びたのだと思います。

逆に、大人になると時間が速くなるのは、世界をどんどん既知のものとして処理するようになるからではないか。

このモードで生きていると、クロノスの処理能力は上がるけれど、カイロスはやせ細っていくし、人生の手触りもドンドン失われていく。

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そして、ここにAI時代の問題が、見事に重なってきます。

現代の一番の危うさはここにあると言っても、過言ではない。

要約やダイジェスト、整理された解説など、いまは長いものを短くし、複雑なものを速く摂取する技術が、ものすごい勢いで進んでいます。

それ自体は本当に便利ですし、僕もかなり助けられている。クロノスを節約できる。

でも、そのぶんカイロスまで豊かになっているかというと、必ずしもそうではない。

逆にAIを使って先回りすればするほど、わかった感じは手に入るけれど、驚きや逡巡や、言葉にならない余韻のための時間はみるみる減っていく。

それは情報処理としては優秀でも、人生の時間としては果たしてどうなのか。

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だから僕は、長編小説に没頭することや、要点の定まらない深い対話を生身の人間とすることの価値が、いまむしろ上がっている気がしています。

どっちも情報という側面だけでみたら、AIに聞けば30秒で終わる話です。

それらに比べて、非常に効率が悪いし、すぐ役に立つとも限らない。むしろ途中では、何をしているのかわからなくなることすらある。

でも、その「わからなさ」の時間こそが、自分自身のカイロスを太らせるという逆説です。

長編小説を読んでいると、自分の中に、他人の深い人生が流れ込んでくる。深い対話をしていると、自分ひとりの時間ではたどり着けない場所へと勝手に連れていかれる。

そのとき僕らは、時間を消費しているのではなく、時間の厚みそのものを回復しているのだと思います。

失われたセンス・オブ・ワンダーを一時的にでも取り戻している、とも言えるはずです。

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もちろん、だから効率化は全部悪だ、という話ではありません。

そこはくれぐれも誤解しないでいただきたい。

クロノスの整理は、絶対に必要です。生活には段取りも必要だし、仕事には締切もある。そこを雑にすると、かえってカイロスに入る余裕すら失ってしまう。

つまり、「ハック」を全部否定すればいいというわけではない。全部を手作りしていたら、時間がどれだけあっても足りない。ちゃんと巨人の肩の上に乗る必要はある。

問題は、何のために巨人の肩の上に乗るのか、をちゃんと自らに理解しておくこと。

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僕らが本当に欲しいのは、ただ空いた時間ではない。密度が濃い人生のほう。そうだとしたら、時間術の問い自体も少しずつ変わってくるはずです。

どうやって一時間を捻出するか、だけではなく、どうやってその一時間を「生きられた時間」に変えられるか。

どうやって世界を既知のものとして処理しすぎないでいられるか。どうやって、クロノス的な時間の中にもう一枚、別のレイヤーを立ち上げることができるのか。

その問いに対して、長編小説への没頭や、深い対話、スタンプラリー的な旅行ではなく、風の吹くままにさすらう旅などは、かなり本質的な実践なのだと思います。

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最後に余談なのですが、ミヒャエル・エンデの『モモ』のなかで、時を司るマイスター・ホラのもとへ向かうときには、モモは後ろ向きに進まなければならない。

時間について考える時、あれは本当に言い得て妙だなといつも思います。

本当の意味で「時間」を手に入れたいとき、僕らはつい真正面からそれを管理しようとしてしまう。削って、詰めて、効率化をして、なんとか前に進もうとする。

でも、ほんとうに「生きられた時間」にたどり着くには、むしろ逆向きに進む必要がある。そんなことを、あの場面は思い出させてくれます。


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「クロノスが伸びたように感じたければ(逆説的に)カイロスを伸ばせ。」

これはかなり本質的なことだと思います。

そのような心がけや営みだけが、このAI時代に、僕らの人生の時間を、内側からもう一度長くしてくれるはずです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんいとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。