先日、らふる中村さんに教えてもらったのですが、今回の熊本地震について、ネット上では「熊本の菊陽町にあるTSMCの半導体工場を狙った人工地震なのではないか」という陰謀論や流言飛語が出回っているそうです。
それにしても、ほんとうによく考えるよなあと、半ば感心すらしてしまいました。
熊本で大きな地震が起きた。
↓
熊本県菊陽町には、台湾の半導体企業であるTSMCの工場がある。
↓
中国と台湾のあいだには、政治的な緊張関係がある。
↓
そして半導体はいまや、経済安全保障を左右する重要物資でもある。
こうして点だけを並べてみると、どれも実際に存在している情報なんですよね。
この事実の羅列の中に嘘はひとつも含まれていません。
そこに「中国が台湾の半導体産業を攻撃するために、熊本のTSMCを狙って人工地震を起こした」という一本の線を引くと突然、無関係だったはずの点と点が、ひとつの物語として立ち上がってしまうわけですよね。
ーーー
では、いったいどこからが「嘘」なのか。
僕が以前から「フェイクコンテキスト」という言葉を用いて警鐘を鳴らそうとしてきたのも、まさにこういう事例です。
事実そのものを捏造するのではなく、事実と事実のあいだを捏造するような手立て。
偽の点(情報)をつくるのではなく、本物の点と本物の点のあいだに、存在しないはずの線を引いてしまうわけですよね。
もしこれが、フェイクニュース(点としての情報)であれば、まだ対処のしようがあります。
「TSMCの工場が全壊した」とか「中国政府が人工地震を認めた」といった情報なら、ひとつずつ真偽を確認していけばいい。
でも、フェイクコンテキストはもっと厄介なんです。
使われている情報は、ひとつずつ確認すれば、どれも間違っていない。
でも、自分が主張したい物語に対して、都合のいい情報だけを強調し、都合の悪い情報をそっと省くことで、まったく別の意味を立ち上げてしまう。
つまり、点ではなく、つないだ「線」のほうに嘘があるということですよね。
ーーー
だから、いくら個々の事実を検証しても、物語全体を否定しきることができないわけです。
「人工地震ではないことを100%証明できるのか」と問われたら、それはもう悪魔の証明です。
本来、「100%否定できない」ことと「可能性が高い」ことは、まったくの別物のはずです。
ところが一度物語ができあがると、「否定できない」がいつのまにか「あり得る」に化けてしまって、「あり得る」が「怪しい」にまでむくむくと育っていき、しまいには「証拠が出てこないのは、隠蔽されているからだ」というところまで、勝手に話が進んでいく。
こうなってしまうと、もうその物語を外側から壊すことはできません。
ーーー
ここまで考えていたときに、ふと思い出したのが、以前読んだ内田樹さんの『新版 映画の構造分析』でした。
この本の中で内田さんは、僕たちが何かを「知る」ということは、すでにひとつの「物語をつくる」ことなのだ、という趣旨の話をしていました。
世界では、無数の出来事が日々同時に起きています。僕たちは、そのすべてを等しく受け取ることなんて絶対にできません。
だから、無数にある情報の中から「意味がありそうな断片」を意図的に選び出し、それらを並べ替えて、因果関係を与えて、ひとまとまりの話として理解するし、そうやって「世界」を理解せざるを得ない。
言い換えると、僕たちは世界をそのまま知っているわけではないんですよね。
世界の中からある情報をピックアップし、別の情報を捨てて、選んだものをつなぎ合わせた物語を通してしか、世界を知ることができない。
つまり、「知る」とは、すでにその時点で「物語る」ことなのだと。
僕はこの話を読んだとき、本当に強く膝を打ちました。本当にそのとおりだなって。
ーーー
たとえば、わかりやすい話に落とし込むと、
①知人からの返信がいつもより遅かった。
②翌日会ってみたら、心なしか態度も冷たい気がする。
③思い返せば、以前にも似たようなことがあった。
この三つの断片が並んだ瞬間、僕たちは「もしかして、相手から嫌われているのではないか」という物語をつくりはじめます。
でも実際には、ただ忙しかっただけかもしれないし、体調が悪かったのかもしれない。
そもそも「態度が冷たかった」という観察自体が、こちらの思い込みだった可能性だってあるわけですよね。
それでも、点がいくつか並ぶと、人はそこに意図的に線を引かずにはいられない。
点と点は、勝手につながるわけではなく、より正確に言えば、僕たち人間のほうが、点と点を必ずつないでしまうんだ、ということです。
『嫌われる勇気』に出てくる「浮気の証拠は、パートナーの浮気の有無関係なく、探せば必ず見つかってしまう」というあの有名な話は、まさにこのフェイクコンテキストを捏造してしまう人間側のまなざし、その危険性について教えてくれているわけですよね。
ーーー
で、そう考えると、先ほどの「事実と事実のあいだを捏造する」というフェイクコンテキストの定義も、少しだけ言い換える必要がありそうです。
そもそも、事実と事実を結ぶこと自体が悪いわけではありません。というより、人間は点と点を結ばなければ、何ひとつ世界を理解できない不思議な生き物なわけです。
歴史を語ることも、映画を観て登場人物の気持ちを推し量ることも、自分の人生を振り返ることも、ぜんぶ断片を選び出し、その順序を決めて、意味を与える行為ですから。
物語をつくることからは、人間である以上、誰も逃れられない。
ーーー
では、何がほんとうの問題なのか。
自分があとから引いた線を、「世界にもともと存在していた線」だと思い込んでしまうこと。これに尽きるのだと思います。
「地震によってTSMCの工場が影響を受けた」というのは、確認可能な影響関係です。
一方で「TSMCを攻撃するために地震が起こされた」というのは、そこに目的や意図を付け加えた仮説にすぎない。この二つは、似ているようでまったく違います。
でも一度「TSMCを狙った人工地震」という物語を採用してしまうと、その後に見つかるあらゆる情報が、その物語の証拠に見えはじめてしまう。
物語が先に決まると、あとから現れる断片の意味まで、その物語に沿って書き換えられてしまうんです。全部が、一気に裏書きされていく。
情報そのものが人を騙すのではなく、その情報がどの物語の中に置かれているのかによって、僕たちの見え方がガラッと変わってしまうわけです。
これがフェイクコンテキストの本当の怖さなのだと思います。
ーーー
内田さんはこの本の中で、出来事の「原因」についても、とてもおもしろい説明をしていました。
たとえば、床に落ちていたガラスの破片をうっかり裸足で踏んでしまって、足から血が出たとします。このときの出血の「原因」は、いったい何なのか。
ガラスを踏んだから。裸足で歩いていたから。誰かがガラスを割ったまま、片づけなかったから。部屋が暗くて、ガラスが見えなかったから。
その「原因」なんて、いくらでも遡れてしまうんですよね。
出来事の中に「唯一の原因」があらかじめ埋まっていて、それを発見すればおしまい、というわけではない。
僕たちは、何を説明したいのかに合わせて、無数に連なる出来事の中からある一点を切り出して、「これが原因だ」と呼んでいるだけなのだ、と。
今回の地震だって同じです。
そして、いまのネット上には、その空欄の「原因」を埋めるための情報が無限に転がってしまっているわけですよね。
ーーー
それにしても、なぜ人は、こうした物語を求めてしまうのでしょうか。
陰謀論を信じる人たちを「頭が悪い」とか「リテラシーが低い」とか笑うだけでは、たぶん何も理解したことにならないと思うんです。
それよりも、人間は、意味のない出来事に耐えるのが、とても苦手な生き物なんですよね。
そして自然災害には、人間的に解釈可能な「意味」が存在しない。
正しい人だけが助かるわけでも、悪い人だけが被害を受けるわけでもなく、ただただ地面が揺れて、たまたまそこにいた人や建物が被害を受ける。
それは、あまりにも無意味で、ものすごく不条理極まりない出来事なわけです。端的に言って、意味不明。
ーーー
それに比べて「中国がTSMCを狙って地震を起こした」という物語には、ちゃんと加害者がいて、被害者がいて、隠蔽する権力まで存在する。すると、世界が急に、物語として理解しやすくなるんですよね。
陰謀論は一見、複雑なことを考えているように見えて、実際には、複雑で無秩序な世界を、猛烈に単純化してしまうわけです。
誰のせいでもない出来事を、誰かのせいである物語に変えてしまう。
悪役のいる世界のほうが、何の意図もなく災害が起きてしまう世界よりも、精神的にはよっぽど耐えやすくなる。
逆に言えば、ほぼ陰謀論だとわかっているような人物であったとしても、自分が体験した不条理の耐え難き辛さゆえに、藁をも掴むような勢いで、陰謀論の物語を自ら採用してしまうこともある。
その人が感じている、悲しさや辛さを僕らは、一概には否定できません。
社会が混乱すると、メディアは悪役探しに熱中しはじめる。どこかに悪役を配置すれば、混乱していた出来事が、ひとつのわかりやすい物語に変わってくれるからです。
ただし現実は、いつだって物語ほど、きれいな因果関係ではできていません。
ーーー
そして、ここにきてようやくAIの話につながるのですが、人間は、AIが登場するずっと前から、点と点を結び、物語をつくって生きてきました。
AIが、陰謀論を発明したわけでも、フェイクコンテキストを生み出したわけでもない。
AIが変えたのは、線を引く速度と量と、そのもっともらしさのほうです。ここがほんとうに重要なポイントだと感じます。
以前であれば、「今回の地震は、TSMCを狙った人工地震なのではないか」という思いつきは、頭の中の漠然とした疑念や、ネット掲示板の短い書き込みで終わっていたはずです。
でもいまは、AIに頼みさえすれば、ネット上に転がる無限の公開情報を大量にかき集めて、時系列に並べ変え、見出しをつけて、一本の長い「調査報告」のような文章に仕立ててくれます。
しかも、そこに並んでいる「点」の多くは、本物なんです。
だから読み手は、情報量の多さを、因果関係の確かさと取り違えてしまう。
ーーー
でも、点がたくさん集まっていることと、それらを結ぶ線が正しいことは、まったく別の話ですよね。
AIの本当の怖さは、存在しない情報をつくり出すことだけではなく、本当に存在する無数の情報の中から、依頼した人間が望むとおりの線を、いくらでも引けてしまうこと。
AIは「嘘をつく機械」というよりも、どんな断片からでも、それらしい「お話をつくってしまう知能」なのだと思います。人間が頭の中に抱いていた漠然とした疑念を、論点と根拠と時系列を備えた、整然とした物語に変えてくれる。
これほど陰謀論づくりに便利な道具も、なかなかないだろうなあと思わされてしまいます。
ーーー
そして、もう一段メタの視点に立ち、正直に白状してしまうと、ここまで書いてきた僕のこの文章自体もまた、ひとつの物語です。
僕は今回、熊本地震、人工地震説という陰謀論、内田樹さんの『映画の構造分析』、フェイクコンテキスト、という点を恣意的に選んで、それらを一本の線で結びました。
「人工地震説こそ、フェイクコンテキストである」という僕の説明もまた、世界にもともと存在していた唯一の説明なんかではなく、僕がいくつかの断片を選び、自分なりに並べてつくった物語にすぎません。
だから、この文章さえもフェイクコンテキストである可能性は、完全には否定できない。
我ながらメタすぎる話ですが、たぶんこの自覚こそが、いちばん大事なのだと思います。
陰謀論を信じている人たちだけが物語の内側にいて、自分だけがその外側から客観的な世界を眺めている、なんてことは絶対にあり得ないのだから。
僕もまた、自分の見たい物語を通して世界を見ています。
それでも、すべてが同じになるわけではないと信じたい。
そのためには、自分が引いた線は、あくまで自分が引いた線であること。別の結び方が、いくらでもあり得ること。その解釈可能性だけは、いつも残しておきたいなあと。
ーーー
最後にまとめると、点と点は、否応なく、必ずつながってしまう。
それが、人間が物語を通してしか、世界を知ることができないという圧倒的な真実です。
だから僕たちに必要なのは、線を引かないことではない。そんなことはそもそも不可能。
AI時代に僕らが疑うべきなのは、点だけではないはずであって、点と点のあいだに引かれた線のほうこそが重要であり、もっと言えば、その線を信じたいと願ってしまっている自分自身です。
言い換えると、必要なのは、点と点をつながない能力ではなく、一度引いてしまった線を、現実に合わせて何度でも引き直せる能力、その胆力や節度のほうなのだと思います。
なかなかにややこしい話を書いてしまった自覚はあるのですが、AI時代にほんとうに大事な観点だと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
