先日、佐々木俊尚さんが朝キュレで紹介していて、とても面白いnote記事を読みました。
UXデザイナーでキャリアコンサルタントでもあるホソヤタケヒロさんが書かれた、「問い疲れ」についての記事です。
いまは、空前の問いブーム。
答えを出す仕事はAIに任せて、人間は問いを立てる力を磨くべきだ、と頻繁に語られる。ビジネス書でもビジネス系の研修でも、問いはかつてないほど、もてはやされています。
そして、僕らのようなコミュニティにおいても「私たちのはたらくを問い続ける」と、問いを中心に置いています。
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ただ、ホソヤさんは、10年以上「問いを立てる側」にいた人間として、以下のように問い直していました。
「問いそのものが、人や組織を追い詰めているのではないか」
問いは中立な道具ではなく、相手に言語化や応答、意志表明を迫る力を持ってしまっているのだ、と。
「あなたは何がしたいのか」と問われて、パッと答えられない自分を責められているように感じたことは、誰にでも一度はあるはずです。
ホソヤさんはこの力を「問いの暴力性」と呼び、五つに分類していました。前提も含めて、とても誠実で、読み応えのある記事でした。
そして僕は、この記事を読みながら、なぜかずっと「読書会」のことを考えていました。
今日は「問い疲れ」時代における、読書会の効用についてこのブログのなかで考えてみたいなと思います。
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この点まず、この記事の中でいちばん唸ってしまったのは、他人から投げかけられる問いよりも、自分で自分に向ける問いのほうがずっと厄介だ、という指摘です。
「自分は何がしたいのか。自分は何者なのか」そんなこと誰にも聞かれていないのに、朝の電車の中でも、夜の布団の中でも、自分で自分を問いで殴り続けてしまう。
ホソヤさんはこの状態を、哲学者ハン・ビョンチョルの言葉を借りて「自己搾取」と呼んでいました。
実はこの話っていうのは、僕自身が何年もかけて、形を変えて何度も書いてきた話、ほとんど同じ話だなと思いました。
具体的には、スタジオジブリの鈴木敏夫さんが語っていた「自分のことばかり考えているから、鬱になる」というあの言葉。
もしくは、ヴィクトール・フランクルの「自己過剰観察」という概念。
参照:「善き物語」や「良心的なもの」の嘘偽らざる正体とは何か?
端的に言えば、自分の「顔」ばかり見ていると、ひとはどうしても鬱になる。
本当に逃げ場がない辛さというのは、問う側も、答えを要求する側も、どちらも自分自身であるときです。
「問い疲れ」の最深部、最大の論点はきっとこのあたりにあるのだと思います。
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で、ここで、ふと気づいたんですよね。
読書会というのは、考えてみれば、問いだらけだなと。90分間ずっと、誰かが何かを問い、誰かがそれを共に考えている状態。
なのに、読書会で「問い疲れ」しているように見える人を僕は今のところ見たことがありません。
むしろみんな、来たときよりも少し軽やかになって帰っていく。
たとえ問いが解けることなくモヤモヤしていても、そのモヤつく表情でさえも、どこか爽やかだなと。
どうして、あんなに問いが飛び交っているのに、誰も問い疲れで疲弊していないのか。
それがとっても不思議だなあと毎回感じます。
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この理由のひとつは、かなりはっきりしていると思います。
読書会では、問いが参加者に対して直接向けられていないから、です。
誰も「あなたは何がしたいのですか」とは真正面から問いません。
代わりにたとえば、『赤毛のアン』の読書会であれば「アンはなぜ、あの場面であんなことを言ったんでしょうね」とお互いに問い合うわけです。
参加者の問いはいったん、名著へと向かう。
そして参加者は、登場人物のことを語るふりをして、自分の人生を間接的に語り始めます。
登場人物の居場所のなさについて熱っぽく語る人は、たいてい、自分の居場所のなさを語っている。そして、本人がそれに気づいているかどうかは、あまり関係がない。
つまり名著とは、問いの暴力性を吸収してくれる「緩衝材」の役割なのだろうなあと。
問いの中に含まれている「あなたに関心がありますよ」という温かい部分だけをこちらに通して、「いま答えろ」「立場を示せ」というトゲの部分は、本のほうが全部、代わりに引き受けてくれる。
だから深く問われているはずなのに、まったく痛みを感じないんじゃないかなって。
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そしてここまで書いてきて、これは「読書会」の話であると同時に、「本のジャンル」の話でもあるなと感じています。
というのも「自分で自分を問う」そんな問い疲れみたいなものは、むしろ読書こそが加速させてくるような場合があるからです。
それが、ビジネス書や、哲学書を中心とした人文系の書籍群です。
誤解のないように言っておくと、僕はどちらも大好きですし、このブログでも数え切れないほど紹介してきました。
ビジネス書にも人文書にも、有益なことしか書かれていない、と言っても過言ではない。でも、有益なことしか書かれていないからこそ、ああいった本は基本的に、読者に向かって二人称で問うてくるんですよね。
「あなたはどう生きるのか」「あなたの強みは何なのか」「あなたにとって善とは何か」と。
ページをめくるたびに、そのサーチライトの光がこちらの顔にずっと直接向けられる。ニーチェとかショーペンハウアーとか、そのあたりの哲学系の本はほんとうにわかりやすいなと。
つまり、有益であることと、問い詰めてくることは、両立してしまう。
だからきっと、そんな本ばかりをひとりで読んでいて、一流の哲学者の問いを自分自身に突きつけ続けていると、当然のように鬱になるんです。
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一方で、小説や文学は違います。
そこに書かれている問いは、あくまで登場人物たちの問いです。アンの問いであり、ラスコーリニコフの問いであって、僕ら自身の問いではない。
だからこそ、良い意味で無責任に考えることができる。
自分の人生を賭けることなく、他人の問いとして、心ゆくまで転がすことができる。
そしてこの「無責任な迂回」こそが、実は自分の人生に対して間接的に一番効くのだと思います。
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読書会には、緩衝材というだけでは説明しきれない、魔法のような効能があると思っているのですが、それっていうのはきっと、登場人物のことを本気で考えているうちに、自分に向けていた問いが、気づいたら「溶けている」ということなんでしょうね。
ただひたすら、純粋に物語の世界にどっぷりと入り込み、アンのことやマシューのこと、マリラのことを考えているような状態。
でもその読書会を終えてから、ふと気づくわけです。「あれ、読書会に参加する前に、あんなに重たかった問いは、いったいどこへ行ったんだろう?」と。
それまで自分の顔ばかりを照らし続けていたサーチライトが、読書会のあいだ、物語の登場人物の顔へと向くことで、自分へ向けていたキツイ問いは、一気に静かになってくれているわけです。
このとき、問いは、解かれたのではなくて、まさに「とけた」のだと思います。溶けることで、解けたという状態。
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「それはただの気晴らしと同じなのでは…?」と思われるかもしれません。
たしかに、Netflixのドラマの一気見だって、自分の問いを一時的に忘れさせてはくれる。
でも、決定的な違いがひとつあります。文学を経由して考えている登場人物の問いは、実は自分の問いの変装だ、ということです。
連ドラへの逃避は、問いを冷凍保存しているだけ。でも文学への迂回は、問いを発酵させながら、しっかりと預かってもくれる。
そして、自分のもとへ戻ってきたときには、問いの形が変わってしまっているか、あるいは、もうそれほど大事なものではなくなっているんですよね。
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さらにもうひとつ。この発酵過程は、ひとりで小説を読むだけでも半分は起きるのですが、読書会という場が、それを何倍にも増幅してくれるなとも思っています。
安心できるコミュニティの仲間たちと語り合うとき、ひとは驚くほど素直に、自分の内側を吐き出すことができてしまう。
もちろん形式上は、作品の感想を話しているだけなんです。
でもその感想には、その人がいま抱えているものが、どうしたってかならず自然と滲み出てしまう。
そしておもしろいのは、それを聴いている側が、何も直接は「答えない」ということです。
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誰も、本人の生き方にアドバイスをしたりなんかはしません。ただ黙って、その感想を聴いているだけ。
あるいは、その人が作品に向けた問いを一緒に考えているだけです。「たしかに、アンはなぜあそこで意地を張ったんでしょうね?」みたいに。
でも不思議なことに、語った本人は、まるで自分の問いを聞いてもらったような気分になるんです。これは体験したことがある方であれば、確かにそうだと実感してもらえるはず。
誰も一切自分の人生には土足で踏み込んでこなかったのに、確かに聞いてもらえたという温かな実感だけが自分の中にじんわりと残る。
そして読書会が終わるころには、不思議と、心が晴れ渡っているというような。
考えてみれば、これはとても倒錯した、でもほんとうに美しい構造だなと僕は思います。
直接問われないからこそ、素直に語れるし、直接答えてもらえないからこそ、ちゃんと自分自身が救われるわけですから。
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そして、この構造の元祖のような人物が、『赤毛のアン』のマシューだなあと思います。
マシューはアンに対して、一度も「お前は将来どうしたいんだ」と作中で問い詰めませんでした。
生き方へのアドバイスも、ほとんど何ひとつしていない。ただ黙って、敬意を持って、アンの空想上の話をしみじみと聞いていただけ。
以前このブログにも書いたように、マシューがアンに贈った最大の贈りものは、パフスリーブの服よりも先にあった、この「敬意の沈黙」だったと僕は思っています。
参照:贈り物は、少しズレて届くから、豊かになる。
問わないことは、無関心では決してない。むしろ「あなたは今のままで、そこにいていい」という、いちばん深い関心の示し方なのだと思います。
その意味で、良い読書会の輪というのは、小さなマシュー的存在の集合体なのかもしれません。
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冒頭で紹介したnoteの記事は、「あなたは不透明で、訳のわからない存在として生きていていい」というメッセージで、読者を問い疲れの呪縛から解放しようとしていました。
本当に、そのとおりだと思います。
ただ、正直に言えば、それを自分ひとりでやり切るのは、なかなかむずかしいとも思うのです。
というか、それが最初からできるのであれば、苦労しない。
不透明なままの自分を、自分ひとりで許容し続けようとすると、今度は「自分はちゃんと自分を許容できているだろうか」という新しい問いが、どうしたってまた生まれてきてしまうから。
自己搾取の出口を、また自分ひとりでグルグルと探しまわってしまう。
だからこそ、優れた文学と、読書会の仲間が隣にいることが、同時に必要なのだと思います。
それは、お互いのどっちつかずな曖昧さをそのままにしながら、同じ物語を眺めながら、問い詰め合うことなく語り合えるような場です。
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以前、読書会とは「二人目の読者になり合う場所」だと書きました。
今日はそこに、もうひとつ定義を付け加えることができそうだなって思っています。
それは「読書会とは、問い疲れ時代に、問われずに、問い合うことができる場所だ」と。
もし、自分で自分に向ける問いに少し疲れているのだとしたら、その問いと真正面から格闘するのではなく、いったん物語に預けてみる。
そして、その物語について、安心できる仲間と共に読書会形式で、思う存分語り合ってみる。
そのような回り道も、あっていいのだと思いますし、現代において最も足りていない場所もきっとそんな場所なのだと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
