僕ら現代人は、「公正さ」ということに対して非常に重きを置いています。

そこには深い意味があるなとは思いつつ、同時に大きな落とし穴も潜んでいるなあといつも思います。

たとえば、ソーシャルビジネス、特にフェアトレードのようなビジネスにおいて「理念の正しさ」と、そのビジネスによって販売される「商品の品質」の問題は、本来まったく別の問題であるはず。

しかし、少しでも品質の問題でそのブランドなりビジネスの仕組みなどを批判でもしようものなら、たちまち非難の矢面に立たされることになる。

具体的には「差別主義者」「レイシスト」「おまえは、この格差の現状を肯定するのか、ひとでなし」というふうに。

そうやって、まるで差別に加担しているかのように仕立て上げられてしまうわけですよね。

だから多くの人が、多少の違和感を感じても口をつぐんでしまうのだと思います。

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でも繰り返しますが、「本来、品質を向上させよう」と「現状を肯定する」ということはまったくの別物であるはず。

にも関わらず、「公正さ」を盾にしてしまうと、自分たちの存在意義を否定されたと捉えてしまうわけです。なぜなら、その理念が、あまりにも正しいから。

人文系、特に倫理や哲学の勉強を行うと、このあたりは本当によく分かる。

いくらでも「公正さ」に立脚したロジックを振りかざすことによって、自分にとって都合の悪い他者を排除できてしまう。

そうすると、目の相手の口をいとも簡単に封じることができてしまう。

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たとえば、現代の、SDGsに関連する数々のビジネスもそうですよね。

17の目標のような「公正さ」を盾にすれば、自分たちのビジネスをいくらでも肯定できてしまう。

逆に言えば、自分たちのビジネスに対して、何か批判してくる他者に有無を言わせない状況を作るために、SDGsがこれだけビジネスに都合よく用いられているということでもあるかと思います。

何か一言でも批判的な言葉を向けるものなら、優しい笑顔で「多様性」を語りながら「棲み分ける」ことを提案して、相手を黙らせて遠ざけることもできてしまう。

女性蔑視、マイノリティ、社会的弱者、知的障害者、ローカルの伝統文化産業などなど、本当にありとあらゆる「政治的正しさ」が掲げられる分野において、今このようなことが同時多発的に起きているなあと思います。

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ここで、くれぐれもご誤解して欲しくないのは、そのようなソーシャルビジネスのような取り組みが間違っているとは決して思わないし、実際に正しいことを理念として掲げられていると思います。

圧倒的に正しい、それは紛れもない事実です。

正しいからこそ、そうやって自分に都合の悪い意見を、論点をずらして遠ざけてしまうことができてしまうこの事実が、僕は非常にもったいないと思うのです。

それは、健全な批判を受け入れて、より良い状態になることを自分たちの手によって封じてしまっているようなものだから。

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一方で、逆に世の中から石を投げられやすい新自由主義や保守主義に対しては、驚くほどの罵詈雑言が飛び交うわけですよね。

ただし、それが中長期的に見れば、健全な方向性に進んでいくことにもつながっていく。

なぜなら、「公正さ」を盾にし、リベラルや革新側だと自認しているひとたちが、正義の旗印のもとに、常に徹底的に批判をし続けてくれるからです。

彼らは自分たちが差別主義者、レイシストと言われることなんでまったく恐れない。むしろ、正義の旗印を掲げて、いくらでも相手の弱点を指摘するだけの権利が自分にはあり、徹底的に相手のことを潰してもいいと信じ込んでいる。

でもそれというのは、中長期的に見れば「敵に塩を送る」ような形になっているわけです。なぜなら、相手の中にある改善点を見事に浮き彫りにしているわけですから。

つまり、新自由主義や保守主義には構造的に、本当に優れた自浄作用が存在するということです。

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ここがまさに「神の見えざる手」や「経済原理」の一番強力なところだと僕は思う。

自分たちが圧倒的に改善できる機会やチャンスを否応なしに内包している。結果的に、新自由主義側はドンドンとアップデートしていくことができるわけですよね。

弁証法のようにして正反合をすべてを保存して、アウフヘーベンしようとする。そうしないと、社会の中で生き残っていくことができないわけですから。

そして、「お金」という一点において、強者であり続けることもできる。そのインセンティブに惹かれて優秀な人々も集まってくる。

特に、まだ何者でもない、お金を欲する若い世代が集まりやすい。そうしたらもう、新たな形に改善されないわけがない。

当然、彼らにも一定の「うしろめたさ」は存在するわけですから、受け入れる部分は素直に受け入れていくに決まっています。それは6年前にこのブログにも書いた通り。


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たとえば、誰にとってもわかりやすいところだと「Youtubeの歴史」なんかはそうですよね。

最初は地上波のテレビ番組や映画など、違法アップロードだらけの無法地帯だった。

そのなかで旧態依然の既得権益の保守層や、著作権や人権を養護する団体からも、批判も大量に浴びて、ドンドンとその仕組を改善をしてきた。

そして今もまさに「政治的な中立公平であるかどうか」という文脈で、大いに騒がれている。

まさに「公正さ」という観点において各方面から石を投げられているわけです。

そしてまた、Google側やユーチューバーたちは、ここに技術なり誠意なりで立ち向かおうとするはずで、そうやって試行錯誤や創意工夫をしている間は、彼らは決して衰退はしない。

なぜなら、結果的に品質は良くなり、コストも下がり、世界中の人々が認知しているという状態が生まれるわけだから。

それは今のAmazonの物流、テスラの車なんかもまさにそうであるようにです。

そりゃあ、伸びていくに決まっています。世界全体で、彼らに対して頼まれてもいないのに、強烈なスパルタ教育をしているようなものですから。

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このように、最初から「公正さ」を全面に打ち出して盾にしてしまうと、そのようなありがたいスパルタ教育の機会を自ら放棄してしまうことになる。

せっかく、敵陣が送ってくれる塩を自ら率先して断ることになる。

公正さを盾にするというのは、それぐらい恐ろしい決断であり、能動的な防御になってしまっている。

そして、気がついたら自分のまわりには盲目的な信者のような人間だけが集まっていて、そこには大したイノベーションも生まれずに独裁政権のようにして終わっていく。

左翼の歴史がいつもそのような結果を辿るように、健全な批判者がいてくれるうちが花だということなんでしょうね。

繰り返しますが、僕はそれが本当にもったいないと思う。だって彼らの言っていることは、本当に正しいのだから。

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また更に、しばらくすると相手から、その武器を逆に用いられてしまったりもする。ハックされる状況も生まれてくる。

この点、凪良ゆうさんの『星を編む』という小説の中に、この状況がものすごく上手に描かれてありました。この小説には「公正さ」において、完璧な男性が出てきます。

主人公の女性は、その男性と結婚しているという設定なのですが、その女性側が「公正さ」を盾に冷徹な選択に迫られる。

でも、それは社会的、政治的には圧倒的に正しいから受け入れざるを得ない。そしてその女性自身が、その「公正さ」に自分が甘えていたと気づくシーンでもある。ここは、身の毛がよだつホラー映画を観ているような気分になりました。

女性作家さんが、このようなシーンを描くこと自体に僕はかなり驚かされたけれど、でも本当にこれが現代の罠だよなあと痛いほどに痛感しました。

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新自由主義に対する罵詈雑言など、今のTwitter上の論争のよなものを見せられると、そのあまりの無法状態に辟易して、多くの人々は自然と「公正さ」に流れていく。

でもそのせいで、その公正さの「ケア」を裏切られなくなる。

「リベラルや人文系の書籍は、現代人のケアである」という話は最近よく語られますが、本当にその通りで、ケアが蔓延ると社会が堕落する理由、粛清に向かうのは、最初は不思議でしょうがなかったけれど、むしろ構造上、当然の帰結だということでしょうね。

より”原理的に”正しい方の意見が採用されて、いつかは自分が排除される側に回るわけですから。

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2010年代前半には、本当にたくさんのソーシャルビジネスが立ち上がりました。

僕もその時にちょうど大学生で、ここから世界が変わっていくと信じていた。でも結局のところ、その多くは「信者ビジネス」に成り下がってしまった。適切な批判を遠ざけたからだと思います。

でも、そのなかでも、イケウチオーガニックさんや坂ノ途中さん、そして群言堂さんにだけは変わらずに期待し続けています。

なぜなら、この三社は自己批判的な目を持ち合わせていて、常に自分たちに厳しい基準を持ち合わせているからです。

そして、このような構造的な欠陥の落とし穴に自分たちがハマっていないかどうかを、常にしっかりと自分たちで問い続けている人々でもある。

そんなふうに自問自答を繰り返し、決して易きに流れない、自己点検し続けている。それが一番大事なことだと思いますし、そんな人達だからこそ心から応援したいなあと思わされるのだと思います。

今の時代にとても大事な観点だと思ったので、今日のブログの中にも書き残して起きました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のこのお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。