現代のような分断の時代は、お互いにわかりあえなくて敵対しがちだというのは、もはや世の中の定説だと思います。

でも最近は、本当にそうなのかなあと疑問に思うようになりました。

タイトルにもある通り、分断している中でも、相手に対して興味関心を抱くかどうかは、また別の問題だと思っています。

むしろ、現代ほどお互いに相手の興味関心ごとに対して関心を抱きやすい時代もなかなかないのではないかと思っています。

今日はそんなお話を少しだけ。

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僕は、敬意というのは、相手の関心事に関心を寄せることだと思っています。

じゃあ、なぜこのような態度がむずかしいと感じるのか。

それは、自分の知っている枠組みに当てはめて、最初から相手のことをわかった気になってしまうからですよね。

この罠から、なかなか人は逃れられない。

目の前の表面的な情報から、相手にすぐにレッテルを貼って、自分の知っている枠組みに当てはめて、相手のことをわかった気になる。

そして、マスメディアが幅を利かせていた時代は、みんなが似たようなことに興味関心を持っていていて、日々触れている主要メディアも一緒だったから、その予測はだいたい当たっていたわけですよね。

相手が何に触れて、どんな主義主張を持ち合わせているのかも大体予想がついてしまっていたわけです。

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でも今は、幸か不幸か、相手が日々触れている「主要なメディア」をただ聴かせてもらうだけでも、いくらでも話が広がっていくなあと思っています。

相手の関心事に素直に関心を寄せていくと、自分の知らない世界の話がドンドンと出てくる。

当然ですよね、日常的に触れているメディアも、住んでいる街も、生きているコミュニティも全然違うのだから。

この点に関連して、僕は平成の天皇、今の上皇・上皇后両陛下の話の聴き方が、本当に心から素晴らしいなあといつも思っています。

最近も、オーディオブックで聴いていた阿川佐和子さんの『話す力』という本の中に、阿川さんが当時の天皇皇后両陛下と一緒にお食事を共にされて、その「聴き方」の素晴らしさについて語られていました。

その場にいるひと、誰一人として置いてけぼりにせず、一緒に食事をしているひとたちに対して平等に接するのだそう。

似たような話は至るところで語られていますよね。被災地でも、避難しているひとたちと同じ目線になって、膝をついて相手の話に耳を傾けようとしたのが、今の上皇だったと。

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じゃあ、なぜこれができるか、考えたことがありますか。

思うに、それは単純に「殿上人だから」だと思います。

そして、自分よりもさらに身分が高い人間がいないこともかなり大きいのだと思います。

身も蓋もない言い方だけれど、僕はそれがかなりの大部分を締めていると思う。

もちろん、ソレに加えて幼い頃から帝王学のようなことも教え込まれていることもきっと大きい。

つまり、本当に目の前にいる人間全員が平等にめずらしいし、本当に全員が平等におもしろい。きっとだからこそ、素直に分け隔てなく、相手の話を聴けるんだと思うんですよね。

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またこの話に関連して、最近オーディオブックで聴いた皇族である彬子女王が書かれた『京都    ものがたりの道』という京都にまつわるエッセイ集も、ものすごくおもしろかったです。

なんでこんなにもみずみずしく京都を切り取れるのか。聴いている方が感動するレベル。

でもそれはきっと上皇・上皇后両陛下と同様に、生まれたときから完全に自由が制限されていた身だからだと思うのです。

本書の中でも、お付きの人たちや、警備している府警さんたちとの話題がたくさん出てくる。

その制限された視座から観る京都の世界だから、素直に感動する。そして、その感動が文章表現を通じて僕らにも伝わってくるから、そこにみずみずしさを感じるわけです。

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他にも例えば、ブッダの四門出遊の話でもいいし、もっとわかりやすくディズニー映画『リトル・マーメイド』みたいな物語でもいい。

なぜ彼らがあんなにもみずみずしく当たり前の現実を語るのか。そのことを考えると、次第に答えも見えてくるはずなんです。

で、僕は今はこのような現象が、全員に起き始めていると思うんですよね。こんな「棚からぼた餅」な時代がほかにありましたか、と僕なんかは思う。

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こんな時代に、若い子と話しているときに「大枠」で聴いてもダメなんです。もっと、各論に踏み込んでいく。

「TikTokとyoutubeを日常的に観ている」と言われたら、更に踏み込んで何のチャンネルを観ているかも聴いてみる。

「なんでソレに興味をもったの?どうしてそこにたどり着いたの?」とか。「どこがおもしろいの?何が魅力的だと感じるの?」とか。

そうやって丁寧に深堀っていくと、ものすごく興味深い話を聴かせてくれたりする。「なるほど、だからか!」と思えるようなことを。

高圧的ではなく、本当にフレンドリーに聴かせてもらうと、聴かれている側も普段は聴かれたこともない質問だから、最初のうちはボソボソと話していても、次第に目を輝かせながら話始める。

周囲の誰も興味を持って聴いてくれないんだから、当然ですよね。

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このときに、相手の言語化をお手伝いさせてもらうような形で歩み寄ってみることが重要で。相手がより一層、その対象を好きになっていくようなイメージで。

現代は、これだけでも1冊の本を書いたり、雑誌の特集を組めたりするレベルだと思います。

むしろ、現代は有名人や著名人のほうが、完全に同じことを言う時代だと思います。

彼らがやってきている努力は、大体は似たり寄ったりですから。

逆に言えば、自己啓発には王道がある理由もここにある。何もひねくれた部分なんて存在しない。

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で、昔から、優れた観察者は、コレをやってきたのだと思うんですよね。

村上春樹さんは、一般人にインタビューするほうがおもしろいと語ります。それを初めて読んだときは、正直に言うと僕も半信半疑でした。

でもその話に今はとても深く共感できる。

村上春樹さんの場合は、決して最初から枠に当てはめたりしない。レッテルを貼らない。ひとりひとりを別の人間として捉えている。

解像度が高すぎるからこそ、それぞれがまったくバラバラのものに見えているとも言えるのだと思います。

わかりやすいところだと、過去に何度も繰り返しご紹介してきた『アンダーグラウンド』なんかはまさにそうですよね。

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あとは、村上春樹さんとフェミニズムにまつわる話も、すごくおもしろいなあと思っています。

以下は『みみずくは黄昏に飛びたつ』という本の中で、川上未映子さんがフェミニズムに関連して、結構突っ込んだ質問を村上春樹さんにしている部分からの引用となります。

    ──例えば、村上さんがレズビアン的志向のある人について書いたとします。それを読んだレズビアンの女性が「これはどうなんだろう?」と受け止めたとしても、それは全く関係ない、小説内の、独立した架空のものであると。

 村上     だって、レズビアンの人がみんな同じ考え方をするわけはないじゃないですか。一口に作家と言っても、みんなそれぞれ違う文体を持っています。それと同じことじゃないのかな。     

──多くの作家はそういうところでも、PC(ポリティカル・コレクトネス) というほど大げさな意識はないにせよ、いろんな外部の事情を気にしながら、 隙のないように書く傾向にあると思います。現実的なリアリティや正しさを考慮してしまう。わたしは、村上さんはずっとそこをすごく自由に表現されているなと思うんですよ。


これって、ものすごく責任逃れみたいに読むこともできるんだけれど、逆に言うと、それぐらい個別性をもって常日頃から対象を観ているということだと僕は思うんですよね。

宮崎駿監督にとって「犬」や「猫」という存在がこの世には存在せず「ポチ」とか「タマ」とかそうやって各個体ごとにしかいないという話にも、とてもよく似ている。

逆に「女性は女性」という一括りで見ている僕ら一般層が、これを何か責任逃れの言説のように捉えてしまう、そんな視座を持ち合わせてしまっているということでもあるのだと思います。

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で、僕の今日の主張は、何度も繰り返し書いてしまいますが、僕ら一般人のような低い解像度であっても、ソレができる時代が、まさに今だと思うんです。

なぜなら、単純にお互いの存在がめずらしいから。

これほどまでに分断して、それぞれの違いを楽しもうと思ったら本気で楽しめる時代も過去になかったと思います。

そして、そのひとの偏りの背景なんかも理解できたりすると、最初はちょっと嫌だなとか苦手だなとか思った相手でも「なるほど、メディアの偏りもあるのか!」と理解が深まったりもする。

そして、それは自分にも全く同様に言えることだと気づくきっかけにもなったりする。

そうすると、目の前にいるその人自身には直接、批判の刃は向かなくなると思います。

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相手に正しく興味関心を持てば、世界は必ずおもしろい。

まさにレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」の世界です。

為末大さんが以前、Voicyの中でご紹介していた江戸の哲学者・三浦梅園の言葉「枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け」にもつながる話だなあと思います。

毎日をなんとなく過ごしていると、生きた木に花が咲くことは当たり前のことと考えがち。そして、枯れ木に花が咲いたときだけ、初めてめずらしがる。

でも、その当たり前に思っていたことのほうが、実は当たり前ではないということに生きる喜びや楽しさ、その自分から能動的に驚いていくことに人生の楽しみはあると、この言葉は僕らに教えてくれているわけです。

そうだとすると、今はお互いに違いだらけで、いくらでもセンス・オブ・ワンダーを素直に享受できる関係性にあると思うんですよね。

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で、今日書いてきたようなおもしろさを伝えるのが、最近頻繁に言及している「コミュニティ時代の編集者」の役割のひとつだと思っています。

このきっかけを与えることができるのが、コミュニティを円滑にするために必要不可欠。

目の前の相手の中に潜むセンス・オブ・ワンダーを、他者にも伝わりやすいような形で、言葉に落とし込む。

それが、コミュニティメンバー同士がつながるきっかけをつくることになるわけですから。

「くぐらせる」その人がくぐらせた話は、必ず面白くなるという感覚。以前ご紹介した、村上春樹のカキフライの例のように。このあたりが今後は、かなり重要なポイントになってくると思っています。


いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。