昨日、こんなツイートをしてみました。


多くの人は「私」という確固たる「自我」がまず先に存在し、そのあとに「言語」などの道具ができてきたと思っている。

でも、それはきっと大きな誤解であって、人間という動物に「反省」や「学習」のようなものが先に備わってきて、その「物語」によって錯覚するという形で、道具としての「自意識」が生まれてきているのだと思います。

だからこそ、本来はすべてが「縁起」であり、「空」なのだと思います。

もちろん、これは仏教の中だけではなく、西洋哲学においても、似たようなことをヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」の話の中でも語ってくれていたりする。

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つまり、「音楽の旋律のように、ひとつめの音に導かれて、その後の音も自然と決まっていく」というのが「言語を話す」という現象の正体なんだろうなあと。

だとすると、最初に何の音を出すのかが、非常に重要になってくる。

なぜなら、一言目に何を発するのかで着地する場所も大体定まってくるから。

そして、それを僕らは「自我」や「自由意志」で自ら選択的に定めていると思いがちなんだけど、実際のところは参照している「クラウドデータ」やその「データベース」の存在(ルールや確率)によって完全に決まってしまっている。

今の生成系AI(ChatGPT)の進化というのは、それを僕らに必死に教えてくれるのだと思うのです。

それを僕らは、AIの圧倒的な進化のスピード、その生成過程を横から生で垣間見せてもらっている。

こんな貴重な体験ってなかなかないと思います。

長い長い歴史の中でも、このタイミングに立ち会えるのは、この瞬間的な現代に生きている僕らだけ。

もし仮にAIを擬人的に捉えたら、その幼少期の急激な成長のタイミングに立ち会えたのと同じぐらい、ものすごく大きな価値がある体験をしているんだと言えそうです。

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だからこそ、返してくる言葉やその内容の意味に一喜一憂して感動するだけではなく、「言語を返すというのは、こういう構造になっていたのだ!」と感動してみたい。

彼らは今、それを必死で僕らに披露してくれているのだから。

具体的には、言語ゲームは、決して何か本体の自我や自由意志があって、そこから能動的、選択的に導かれているわけではないんだ、と。

1つ目の倒れるドミノが決まれば、2つ目の倒れるドミノが決まり、そのあとはもう連鎖的につながっていくということなのでしょうね。

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そのように、あくまで僕らは、その場でその場で刹那的な「言語ゲーム」が成立するように言葉を紡いでいるにすぎなくて、人間はそういう言語の返答に対して、勝手に「人格」を感じとっているだけなのだろうなあと。

そのような実感値、つまるところ人間の「錯覚」がまず先に存在し、その相手がAIだろうと、人間(子ども)相手だろうと変わらない。

ものすごく壮大なマジックの「種明かし」をされているような気分になってきますよね。

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じゃあ、ボンヤリとそんなことを理解したうえで、僕らにできることっていうのは、一体何なのでしょうか。

自我がないとしたら、すべての事柄は生まれた瞬間から完全に決まっていて、「決定論」のように思えてきてしまいますよね。

この点、僕らが自らできることは、その参照する「データーベース」を変え続けるしかないということだと思います。

つまり、それが以前もお話した「有機的な環境」の正体そのものでもある。



データベースという感覚がちょっと無機質過ぎて入ってこないなあと感じられるのならば、言葉を引き出してくれる広義の「他者」と言い換えてもいいのかもしれない。

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この点、橋爪大三郎さんは『正しい本の読み方』という本の中で「本を読むということは何か?」という問いに対して、「著者のケンカ」という例で非常にわかりやすい説明をしてくださっている。

その内容をここで少し引用してみたいと思います。

人文系の著者は、だいたい仲が悪い。互いに意見が合わない。でも、入門的な教科書には、デカルトも、カントも、ニーチェもフロイトも、仲よく並んでるじゃないですか。教科書だから平和に並んでいるだけであって、著者それぞれの本を読んだあとでは、そういう平和は消えてしまう。     ケンカを始めるかもしれない、私の頭のなかで。     

でも、自分の頭の主人は、私なのです。キミらは、がやがや議論している限りで、私の頭のなかにいてよろしい。ただし暴力は禁止する、と申し渡して、許可を与えている。そうやって、私の頭のなかの著者がだんだん増えていく。     これが本を読むということだと思う。


さて、いかがでしょうか。これは本当にわかりやすいお話だなあと思います。

自分の中に存在している対立する意見を述べる相矛盾する他者たち。

そのケンカの内容が、僕らの言葉を紡ぎ出してくれているにすぎないと考えることはできないでしょうか。

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実際、毎日文章を書き続けていると、これと似たようなことを本当に強く実感する。

最初の書き出しさえ決まれば、あとは自然と文章が流れはじめていきます。

この感覚は、小説の作家さんが「キャラクターが勝手に動き出す」と語るのと似ているのかもしれません。

じゃあ、その最初の書き出しというのは、何が一体定めているのかと言えば、私が私という環境の中で「最近」体験していること、そのものに他ならないはずなのです。

今日の僕のブログの内容で言えば、最近読了した橘玲さん新刊に掲載されていた文章に触発されて、同じタイミングでWasei Salonの中で仏教の「読書会」が開催されて、いま自分が独学をしているウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の話とつながって、世間の「ChatGPT」のブームとつながった。

このように、選べるのは自己の周囲に植える(植わっている)種や苗、その有機的な環境だけ。

どのようなデーターベースと自己のつながりをもたせて、そこにどんな先人たちの言葉が並べられているのか。

それで、大方の方向性のようなものは定まっていく。

そのように自らの空間を常に耕しながら、手入れするほかない。

その空間内から煙立つようなものが、確固たる存在であるとみんなが信じて疑わない「私」という「道具」の正体なのだと思います。

自我なんてものは存在しない。全ては縁起であり、空であるというのはきっとそういうことだと今の僕は思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。