先日、Twitterにこんな投稿をしてみました。
この点、読書というのは本来、著者との思考過程や、問いを共有する体験がメインだったはずです。
でも、いつの間にか、その結論である「情報」それ自体が、本の価値そのものになってしまったわけですよね。
書籍の要約サイトや要約系のYouTuberの台頭が大きな原因だと思います。
以前も語ったことのある「僕らは本来、体験を求めていたはずが、いまは情報だけが手元にきてしまっている」という内容でも語ったとおり。
https://wasei.salon/blogs/aa46036abb9c
そして、これは読書会のような場を経験することでより一層、その変化を実感することができるかと思います。
参加しているメンバーがまったく同じ本を読んできたはずにも関わらず、それぞれに全く違う捉え方をしていて、そもそも読書において「結論自体が真の価値ではない」ということは、すぐに分かる。
それよりも、私の読み解き方、その1冊を通じて個人個人の中におけるそれぞれの変容、その体験こそが真の価値であると。
そして、それを気づかせてくれるのは、同じ読書会に参加した他者との学びとの比較をしたときに強く実感できることだったりします。
僕は、そんな読書会を通して出会った友人たちの存在が、いまは本当に「宝物」だなあと思っています。
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さて、そんなことをモヤモヤと考えていたときに、先日Wasei Salonの中で『そもそも、友達ってなんだろう?』という問いをテーマにした対話会イベントが開催されました。
この点、僕が思う友だちとは「記憶」を共有する存在です。
そして、一方で僕が思う仲間とは「記録」を共有する存在です。
前者は「時間」を共有していて、後者は「結果」を共有している。
そして、ここからは、かなり偏った未来予測になるのですが、これからはそんな良い友人を持つこと自体が「嗜好品」のような存在となっていきそうだなあと。
それは、現代社会における配偶者や子どものような存在に近くなる気がするんですよね。本当に欲しいと思う人達だけがつくり、築ける関係性というような。
なぜそう思うのかといえば、きっとこれからの世の中において、生きる上で必要な関係性は「仲間」しか要らなくなってくるからです。
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この点、以前、瀧本哲史さんが『君に友だちはいらない』というタイトルの新書を出されていました。
とても人気の本だったので、読んだことがある方も多いかと思います。
あの本の中で語られていたお話は、ものすごく正しい。今振り返ってみても、圧倒的に正しい未来予測だったと思います。
これからの世の中を生き抜いていくうえで、仲間は絶対に必要になるけれど、友達は必ずしも必要じゃなくなってくると当時から予見されていました。
ギグワークのようなものがドンドン当たり前となって、映画『七人の侍』や『スラムダンク』、『攻殻機動隊』や『ワンピース』のような、何かの目的のために集うチーム、そんな仲間がドンドン大事になってくる。
アドホックな連帯や個々人がスタンドアローンであることが、それぞれに強く求められる世の中になっていくのでしょうね。それはもう間違いない。
そのためには、関係性を育むための過程や時間の共有なんかは早々に省いて、すぐに目的遂行に移りたいと、みんなが願うはずです。
そうなると、要約された「結論」を理解した人間だけに集まってもらったほうが圧倒的に効率がいいのは間違いないですよね。
もちろん、目標達成後のチームの維持継続というのも、ただのコストだから、すぐにミッションが達成されたら「解散!」となるはずです。
こうやって、ドンドン目的を達成できるコミュニケーションコストの少ない仲間を追い求め続けることが、人生を賢く「生きる」コツや、賢く「働く」コツとなっていきそうです。
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そのとき、どうやって人が集められるかと言えば、ちょうどマッチングアプリのように何かしらの条件や情報でソートできるようになるはずなんですよね。
記憶の共有や時間の共有という概念は、そこにはそもそも存在していない。
結果の最短距離を行こうとする関係性の中においては、そんなものは完全に不要なものですからね。
なんだったら、そこで生じてしまう対人関係のいざこざなんかは邪魔なものでしかない。
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でも、ここからが非常に重要なポイントなんですが、本来きっと「友だち」というのは、そもそもそういう厄介事を孕んだ関係性なんだと思います。
この点、「君と友達になりたい」というセリフはある種の語彙矛盾であると、僕らは誰もが一般的に理解しています。
その証拠に、ドラマや映画の中でこの言葉が出てくると多くのひとはそのセリフに違和感を抱くはず。
じゃあ実際にはどう思っているのかといえば、学校とか、地域とか、会社とか、全然関係ない人間同士で、なぜか一緒に集められた者同士の間で一定の時間を共有し、記憶を共有した者同士の中に自然と芽生えてしまっているものが友情だと思っている。
だからこそあえて、そのことがわかっていない不器用なキャラクターに言わせる言葉となっている。
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そうやってある空間の中に、勝手に集められた者同士の中で、友達という関係性を構築するのは、非常にめんどうくさい作業です。必ずいじめのような悪質なことも発生する。
結婚の場合で言えば「お見合い結婚」のような面倒くささや、不自由さがそこに存在している。
でも、本当の友情というのは、そういう場からしか立ちあらわれてはくれないんだと思うのですよね。
何の共通性もなく集められた人間同士の中で、それでも、そこに何かを育もうとするときに初めて立ちあらわれてくるものが、きっと友情というものの本質だから。
言い換えると、それを発見しようと、集まっている者同士で必死にごまかしたり、でっちあげたりして、懸命に「虚構」を作り出そうとする作業の中だけに立ちあらわれてくれるものが、友情という不思議な魔力なのだと思います。
でも、それこそが僕らを代替不可能な、唯一無二の関係性にもいざなってくれる。
非常にわかりにくい話をしてしまって申し訳ないですが、たぶん伝わる人には、しっかりと伝わっていると信じています。
この話が理解できなくても、いま自分にとって友だちだと思える人と、どのようにその関係性までたどり着いたのかを考えてもらえると、少しはわかりやすくなるかもしれません。
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「あー、だから私達は共にいたのか」と長い時間が経過した後に、遡及的、人工的に発見したもののほうが、本当の友人関係においては重要なんだろうなあと。
だから、なるべく人間関係をマッチングアプリのように紐付けようとしないほうがいいんだと思います。
でも、これからの社会はきっと、そういうものをすべて面倒な事柄だと排除していくに違いない。
それはまるで、「分厚い書籍の中だるみ」と同じように捉えて、結論以外はすべて不要な箇所だと言わんばかりに。
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だから、これからはそういう「サービス」が世の中にドンドンあふれかえるはず。
資本主義社会に僕らが生きている以上、それはきっと避けられない。それがあまりにも便利で、自由だ(と思えてしまう)からです。
これからはより一層そんな「目的を共にする者同士で集まる組織」が加速していく世の中になっていくはずなんです。
その中で、歩みの遅い人間、場の空気を読めない人間はことごとく切り捨てていくことが正攻法となっていくでしょう。それはもうしばらくは避けられないはず。
ある目的のために、手段や条件を共にした者同士で集う居心地の良い空間がドンドン優先されていくようになっていく。
現代は、SNSやWeb3、そしてAIなどの登場によって、それがあまりにも簡単に可能とりましたからね。
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でも、そうやって結果の最短距離のために、目的達成をともにする者同士だけで集まって「仲間」をつくり、残りの時間はすべて家族との時間を過ごすことが、本当に良い世界なのかは、一度それぞれがそれぞれの価値観の中で、胸に手を当てて考えてみたいことです。
僕は、仲間を大切にするとともに、そんな友達との目的のない「時間」を共有し、対話そのものが目的となるような、思考過程やプロセス、そして問いのほうも同時に大事にしていきたい。
自分は、仲間と家族だけでいいという人には全く関係ない話だったと思いますが、友達を大切にしたいと思うひとは、ぜひ目的のない関係性や時間も同時に大事にしてみてくださいね。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
2023/03/20 10:52