突然ですが、僕は自分の中に「寂しさ」の感情がわいてきたら、特に解決しようとせず、無視もせず、ただただ観察するだけにとどめています。
「あー、自分はいま寂しさを感じているのだなあ」と意識するだけ。
なぜなら寂しさは、怒りなどほかの感情と比べて、内臓に近いセンシティブな感情だと思っているから。
無理やり解消しようとして、下手に何かしらのアクションを加えてしまうと、泥沼にハマってしまう可能性がある…。
今日は、そんなお話を少しだけこのブログにも書き残しておこうかなと思います。
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この点、たとえば「怒り」という感情であれば、その感情を分析して、自ら解消することもできます。
なぜなら、怒りはロジカルに怒っていることが多いからです。
たとえ、どれだけまわりからみて理不尽に怒っているように見えても、本人の中には必ず怒りにつながった原因があり、怒りに到達したロジックが存在する。
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一方、寂しさはロジカルに説明できないことが一般的です。
ふと突然訪れるものが「寂しさ」という感情でもある。
たとえば、他者から無償の優しさを受けて、寂しさを感じる瞬間もあるでしょう。
また、季節の訪れや、街中で突然鼻をくすぐった香りで、寂しくなる瞬間もある。
このように、一般的には寂しさを感じるような場面ではないときにも関わらず、自分自身の中では寂しさを感じる瞬間が多々ありますよね。
過去のさまざまな経験や思い出が多数入り混じり、自分自身でもなぜいま寂しさを感じているのか、その正体がわからない場合が多いです。
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また、怒りを感じるだけで人は自殺しないと思います。
でも、寂しさを感じるだけで人は自殺してしまいます。
それほど、寂しさとは何か根源的な感情であり、センシティブな感情でもあると思うのです。
しかし一方で、寂しさはそれに浸りたくなる瞬間もありますよね。
これが寂しさの非常に厄介なところでもあり、寂しさという感情のズルさでもあると思います。
そこに何かしらの中毒性が、少なからず存在しているのです。
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この点においても、怒りと比較した場合に、怒りは自ら進んでその感情に浸りたくなることはまずないと思います。
もちろん、常に怒りを抱えているひともいますが、その人たちは自己の中に何かしらの正義感が存在していて、常に怒りを抱えているわけです。
本人の中では、本当はその怒りを手放したい(解消したい)と思っているけれど、怒らなければいけない原因があって、それに対する正義感から怒りを抱え続けなければならないと信じているのです。(私憤・義憤問わず)
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以上のような理由から、僕は寂しさの取り扱い方には、非常に注意が必要だなあと日々感じています。
無理に解消しようとせず、一方で無視もしない。ただただ眺めて、観察してみる。
そんなお話を『お金と人のないしょ』の最新回(過去の2回分)で、F太さんと一緒にしてみました。
今日のお話で「寂しさ」に興味を持ってくださった方は、ぜひ本編も聴いてみてもらえると嬉しいです。
https://audiobook.jp/audiobook/244372
今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにも何かしらの気づきにつながったら幸いです。