コロナを挟んで、2010年代と2020年代では、リアルイベントに参加する意味合いが大きく変わってきたと思います。

ありがたいお話を聞くチャンスや、著名人との交流の機会は、完全にオンラインイベントに置き換わりました。

じゃあ、リアルイベントの空間に自らの身を浸すことの意味はどこにあるのかといえば、その場に集う他者と対話をして、自分の中に湧き上がってきた「違和感」を大切にするために参加する、そんな要素が非常に重要になってきているなと感じます。

つまり、あくまでリアルイベントというのは、その場に訪れる人々や、人々が生み出す空気感を自らの五感で体感した結果、私の内側から立ちあらわれてくる疑問や発見を得るための手段であり、その呼び水に過ぎない。

外から到来してくる情報が「正解」なのではなく、その場で感じた感覚を経由して「私にとっての正解」にたどり着くまでの過程に過ぎないのだろうなあと。

ーーー

きっとこれは、旅にたとえるとわかりやすいかと思います。

旅というのは、一応目的地はあるけれど、その目的地までの行き帰りのあいだで自分が何を感じるのかを観察することが、旅の醍醐味ですよね。

この部分を蔑ろにした瞬間、ただのスタンプラリーへと成り下がる。

旅路のなかにおいて自分自身が空間の「変数」になることによって、得られる体験や知覚って間違いなくあると思います。

これは、テレビやネットで見聞きした情報だけを頭の中で妄想しているだけの場合と、実際に自らが現場で体験する場合とでは、大きな大きな隔たりがあることは誰の目から見ても明らかです。

現実の空間に身を浸し、自ら体感することで初めて、私のなかに立ちあらわれてくる感覚が存在する。

ーーー

もちろん、そこで立ちあらわれれてくる感覚というのは、すべてがすんなりと受け入れられるものだけではないと思います。

むしろ、モヤモヤすることのほうがいっぱいある。「あれっ?」「なんで?」って思うことのほうが圧倒的に多いはず。

そうすると、ひとはすぐに「正解」や「解釈の仕方」を求めてしまいがち。その宙ぶらりんな状態は、非常に居心地が悪いものですからね。

完全に「否定するか、肯定するか」で、とにかく安心したくなる。でも自分の解釈には自信がないから、すぐに他人の答えを探しにいってしまう。

この場面で他人の正解や解釈を追い求めないことって本当に大事だと思います。この胆力がいま本当に求められている。

ーーー

これをわかりやすく他の例にたとえると、映画を観に行ったあとに、ほかのひとがこの映画をどう観たのか、それをすぐにググってしまわないことに非常によく似ている。

現代は、いたるところに他人の正解や解釈が落ちている世の中だから、すぐにググらずにその居心地の悪さに耐えることって本当に大事だなあと。

あれはどんな意味だったのか、モヤモヤしたまま一晩を過ごす。

「なぜだろう?」「どうしてだろう?」と、その違和感を違和感のまま観察すること。

他人にその解釈を委ねてしまわないこと。それは、人生の一番美味しいところを他人に手渡してしまっているようなものです。

一通り自分で考え抜いたと思える状態であれば、「あなたは、そう眺めるのね」となるし、また「その視点はなかった、素晴らしい意見をありがとう!」という気持ちにもなれる。

それを参考にしながら、また自分の景色を眺めにいくことが本当に大事なのだろうなあと。

ーーー

リアルイベントは、この一連の流れを体験するために参加するものに大きく変わってきたように思います。

2010年代までも、このような要素を求めて楽しんでいた人たちもいたとは思うけれど、オンラインで代替可能な部分がハッキリと見える化されたからこそ、より一層このような要素が魅力になってきているなあと思います。

そう考えると、改めて現場に足を運び、他者と対話すること自体がものすごく大切になってきているなあと思います。

ネットに比べてその変数が圧倒的に多く、私自身が「変数そのもの」になれるのは、リアルの空間しかありえないから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。