近ごろ、自分が一体何に葛藤しているのか、

何と何の狭間で悶々としているのか、わからない事案が立て続けに起きました。

その原因が最初は全くわからなかったのですが、これは、自分の中の「論理的な正しさ」と「道理的な正しさ」の狭間で悩んでしまっているのだと、ハッと気付きました。

今日はそんなお話を少しだけ。

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みなさんもよくご存知のように、日本人の中には、西洋的な論理的な思考と、東洋的な道理的な思想、そのどちらもが共存しています。

そんなダブルスタンダードを、場面ごとに無意識的に、でも死ぬほど器用に日常的に、駆使しているのが日本人です。

そして、論理を用いるべきだと多くの人が感じる場面で道理を用いるヤツ、道理を用いるべきだと多くの人が感じる場面で論理を用いるヤツが、「空気が読めないヤツ」というレッテルを貼られてしまう。

しかし、この「ダブルスタンダードである」ということ自体が間違っているのではなく、ダブルスタンダードこそが、日本人的な価値観そのものでもあるということなのだと思います。

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この点、第二次世界大戦中に、アメリカ兵が天皇主権説(天皇が天照大神の子孫である)を信じている日本兵に対して、「ダーウィンの進化論」を教えたところ、

「そんなことは知っている」と言い放った上で、それでも日本人が天皇主権説を同時に信じている、そのことにアメリカ兵は全く理解できなかったという有名な逸話があります。

これも、論理的な正しさと、道理的な正しさが共生していたからこそ生まれた価値観なのでしょう。

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もちろん、現代のなかにも似たような葛藤は至るところに存在しています。

例えば、ジェンダーギャップの解消と、家父長制の尊重も、論理と道理の狭間の問題と言えそうです。

SDGsも、西洋の論理的な正しさだけが主張されている内容で、日本人が大切にしてきた道理的な正しさがそこに完全には含まれていないから、日本人からするとなんだか違和感を感じてしまう部分もある。

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また、わかりやすいところで言えば、いま話題の渋沢栄一の『論語と算盤』も、道理と論理の共存の話です。

大河ドラマ『青天を衝け』の中で、家を捨てて京に向かう栄一に対して、父親が「ひとの道理に反したことだけはするなよ。」と語りかけるシーンがあります。

父の優しさが溢れるシーンで、後の栄一の中にも論理と道理が共生していることがとてもよくわかるシーンでした。

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日本人としてこの国に生きている以上、このルールをちゃんと理解しないといけないと僕は思います。

それは「道徳の勉強をしっかりして、空気の読めるひとになりましょう!」という安直な話ではなく、

このダブルスタンダードの起源をちゃんと知ること。

「なぜ日本人が、論理と道理を両方同時に重んじるようになったのか?」それを歴史を通じて、ちゃんと理解すること。

儒教(東洋思想)や仏教の影響が非常に大きいことは間違いないでしょう。

そこからどのように明治以降、急速に論理的な思考が流入し、そこに折り合いをつけ、今に至るのか。

そう、これは「折り合い」の話なんです。

必ずまた日本人はどこかで折り合いをつけるはず。


今は混乱しているけれど、必ずまた独自の価値観や、文化として練り上げるはずなのです。

それこそがこの国に一貫して流れている「和」の考え方そのものでもあるように思う。

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未来の道筋を探るヒントを、僕らは過去の歴史から学ぶ必要がある。

そのためにも、いま最初の趣旨目的に立ち返ることが何よりも重要な気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。


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