最近、新しい人に出会うとき「このひと、俺と会う前にディープリサーチしてきたな」というのが、わりと一瞬でわかるようになってきました。

もちろん、それ自体は悪くないことだと思っています。

相手のことを少しでも知ろうとしてから会うことは、場によっては礼儀やマナーでもあるだろうし、実際そのほうが話がスムーズになることも多いです。

ーーー

でも、そういうことして「やったった感」出している人間ほど「あなたのことは、もうよくわかっている」という得意げな顔をしてくる。

そして自分の場合、そういうひとほどことごとく苦手だってことも、なんだか最近よく実感するようになってきました。

むしろ、だったら逆に、自分のことをほとんど知らずに会いに来てくれて、その場でちゃんと知ろうとしてくれる人のほうが、100倍好きだなと。

いま目の前にいる自分の言葉に耳を澄ませてくれるひと、この場の会話のなかで「もっと教えてください」と素直に言えて、純粋に学ぶ意欲があるひと。

しかもその場で聞くべき話と、あとからディープリサーチで知ることができる話を、ちゃんと峻別できて、いま耳を澄ますべきことが一体何かを判別できるひと、そっちのほうが、ずっと嬉しい。

ーーー

で、ここにAI時代に重要な観点、そのズレがあると思っています。

情報を先に知っていること自体は、もう偉くもなんともないわけです。

ディープリサーチをすれば、誰がプロンプトを打ってもすぐに出てくるわけですから。

知識や情報を持っていることそれ自体には、昔ほどの希少性がない。にもかかわらず、まだそこに価値があると思っている人も多いわけです。

「AIを活用できていて、自分は最先端なんだ!」という顔をして、一番時代遅れ、みたいなことが起きてしまっているなあと。

ーーー

で、真の問題は、それを使ったこと自体を、自分の誠実さの証明にしてしまうことのほうにあるのだと思います。

これは、AIに限らず、たとえば「高級な手土産」なんかもそうですよね。

そう、これは、「とらやの羊羹」みたいな話なんです。

とらやの羊羹って、いかにも「ちゃんとしている贈り物」の象徴だと思います。

誰がどう見ても失礼ではないし、一定の品もある。持っていくこと自体は全然構わない。

でも、だからこそ危ない。持っていった側が「とらやの羊羹を持ってきたんだから十分だろう」「これで礼は尽くしているだろう」と思い込んだ瞬間に、それは地雷になる。

ーーー

羊羹が苦手な人もいれば、もうその「とらや」の権威にもうひれ伏さない若い人も多い。

それを「教養がない」とバカにするのもカンタンなのだけれど(そして実際にXではそういうやり取りが日々行われているけれど)でも本来、贈り物というのは相手を喜ばせるための手段だったはずです。

ところがいつの間にか、「私はちゃんとしています」「私は礼儀を知っています」という自己証明に変わってしまっているわけです。

ーーー

つまり、相手のための礼が、自分のための免罪符になる危うさがここにある。

で、ディープリサーチも、たぶんそれと同じ。

使うのはいい。むしろどんどん使えばいい。

ただ、「AIを使って準備したんだから」という、その安心感がいちばん危ない。

その最先端の手段に寄りかかって古臭い礼儀を通したと思うくらいなら、いっそ手ぶらのほうがまだましだ、ということです。

今は、AIを使って「とらやの羊羹」がタダで手に入り、昔はこれが高級品だとされていたから、これを持っていったら喜ばれるんでしょ、ラッキー!ぐらいの思惑が、透けて見えてしまうし、それが一番相手にも失礼だ、ということです。

逆に、手ぶらの人のほうが、まだ目の前の相手の話に素直に驚ける。純粋な好奇心があるからです。

ーーー

以前、村上春樹の『スプートニクの恋人』に出てくる「車の運転は上手ではないけれど、注意深く耳を澄ますひとのほうが、一緒にドライブする相手としては好ましい」という話をご紹介したことがあるけれどまさにあの話です。

車の運転に限らず、人と一緒に何かの時間を過ごすとき、本当に大事なのは器用さやうまさそのものよりも、注意深く耳を澄ませられるかどうか、だということですよね。


ーーー

ここまでの話をまとめると、問題は「知っているかどうか」ではない。

また、どれだけうまくできるかでもない。どれだけ金がかかっているかでもない。

その知識や技術を持ったうえでなお、相手の前で相手に対し最大限の敬意をもって、注意深くいられるかどうか、です。

あくまでそれを表す手段が時代ごとに異なるにすぎない。

そして最近、こういうズレとほとんど同じ構造のものを、もうひとつ別の文脈でも見ることが増えた。

ーーー

少し話が飛びますが、「これからは『AIの外』が大事になる」と語られる一般論なんかも、まさにソレです。

「だからこそ、これからは人間らしい身体性だ、自然だ」と。

でも最近、正直そこに少し別の違和感も感じるようになってきました。

それは、「AIの外へ行こう」という主張自体が、すでに「AIの中」にある状態だからです。

ーーー

AIのアンチテーゼとして、身体、偶然、ノイズ、現場、非効率をきれいに並べたくなる。

そして、それを新しい正解のロジックとして、流通させ始めたくなる。

それは、全部正しいとは思うし、僕も何度もそうやってこのブログの中でも似たようなことを主張してきました。

ただ、それらが「正しい反AI的ライフスタイル」みたいな顔をし始めた瞬間に、少しだけ怪しくなってくるなと。

ーーー

身体性とは、心地よいもののことではなく、そもそも「ままならないもの」のことでもあるはずです。

言い方を変えると、今の身体性の議論、「AIの外」の議論は、まさに「企て」になっちゃっているなと。

「遊び」のための身体性だったはずが、AIに飲み込まれないための「企て」、そのための身体性になってしまっているんです。

つまりここでも、起きていることはディープリサーチとまったく同じ話の構造なのだと思います。

ーーー

ここで思い出すのが、孔子の「仁」と「礼」の話。

かなり大ざっぱに言えば、礼とは、敬意や配慮を形にするための形式や手段。挨拶の仕方や言葉遣い、贈り物、ふるまい方など、敬意を外に見えるかたちにするもの。

一方で、仁とは、その内側にあるものです。相手を大切に思うこと。相手を知ろうとすること。思いやりや敬意の、もっと根っこのほうにある感覚です。

昔は、礼そのものに、かなりコストがかかった。だから、礼をこなすだけでも、ある程度の誠意がにじみやすかった。

でも、いまは違う。

従来的な礼の手段は、どんどん簡素化されている。だからこそ従来的な「礼を尽くした」という事実そのものの価値は、ドンドン下がっていく。

それだけでは、もう足りない。

というより、それだけでは、ほとんど何も意味がない時代になってきた。だから逆に剥き出しになるのが、仁のほうなのだと思います。

ーーー

礼が便利になるほど、仁の有無はごまかしにくくなる。

そして厄介なことに、礼が便利になるほど、人はますます仁をおろそかにしやすい。

ここには、親鸞の悪人正機に似た逆説がある。

「自分はちゃんとできている、自分は礼を尽くせている、自分は人間らしい側に立てている。」

そう思った瞬間に、かえっていちばん大事なものから遠ざかってしまうわけですから。そういう人間ほど、足元がすくわれやすい。それが親鸞が言いたかったことであるはず。

逆に、自分の不完全さや愚鈍さを引き受けながら、それでも相手の前で耳を澄まそうとする人のほうにこそ、報いはやってくるんだ、と。

ーーー

「AIの外」に行くことそれ自体が、大事なのではない。AIを使わないこと自体が、偉いのでもない。

大事なのは、それらの手段や態度が、自分にとって本当に切実なものとして引き受けられているかどうかです。

もっと言えば、どんな手段を使ったあとでもなお「自分はまだこの人のこと、この世界のことを何も知らない」と思えるかどうか。

繰り返すけれど、知っていることは、今の時代もう偉くもなんともない。

いま価値を持つのは、知ったうえで、その人間がどう振る舞うか。

ーーー

とらやの羊羹を持っていってもいい。
ディープリサーチをしてきてもいい。
「AIの外」として身体性を大事にしてもいい。

でも、そのどれも、自分の正しさの証明になった瞬間に、死んでしまう。

最先端な顔をして、一番時代遅れにならないためにこそ、これから必要なのは、知ったあとでもなお驕らず、わかったつもりにもならずにいること。

「もっと知りたい、もっと教えて」と、ちゃんと態度で示せること。そのときに、一番趣旨にあった、かつ相手に敬意がある形で、AIも最大限に用いることができること。

それこそが、大事になってくるのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。