ライター・編集者の三浦 希です。こんにちは。久方ぶりにWasei Salonへ戻ってまいりました。みなさんお元気ですか。元気でなくとも、健やかであったらいいなぁと感じます。

さてさて、地元に戻ってきました。「さてさて、地元に戻ってきました」ってなんか笑っちゃうな。ごめんなさい。突然。戻ってまいりました。僕にとって、ここでの「地元」というのは「北海道日高郡」という名の地域です。

振り返ってみれば、中学3年生になるまで、僕はこの町に暮らしていました。たこ焼きみたいな坊主頭の剣道少年として、海風香る日高にて、一生懸命に汗を流しながら稽古に励んでおりました。おかげさまで北海道のチャンピオンになるまで頑張れた。うれしかったなぁ。その後は、いくつもの高校からお声がけ(特待推薦)をいただいたにも関わらず、自身が若くして見据えた「英語をしゃべれる人ってかっけえよな」という夢に向かい、札幌の街(英文学科がある高校)に出ていくのでした。


さてさて、さてさて(さてさてばっかり言っちゃうね)。閑話休題。ここにて本題をば。

地元に、戻ってきました。日高の町に戻ってまいりました。海風がぐいぐい運ぶ潮の香りは相変わらずで、家から歩いて30秒のところにはドデカく海が広がっており。相変わらずでした。カモメも元気そうです。ダイナミックでビューティフルです。相変わらずだね。


地元に戻ってきた理由として、僕、別に「日高を助けたい!!」や「日高を救いたいんだ!!」などとは、一切思っていません。全然思ってない。冬、お父さんが天国へ旅立ったことをきっかけに、お母さんが一人で暮らしていくのはなんとなく寂しいべなぁと思い、毎月の帰省を決定したのは確かな事実。悲しかった。ただ、それも特段「お母さんが可哀想だから……」って訳でもありません。日高も、お母さんも、全然助けたくないし救いたくもない。

「可哀想」から生まれる人と人のやりとり、関わり合いは、明らかなる「情け」ですから。親に情けをかけるなど、僕にとっては言語道断です。いつまで経っても親は親。情けなくなんか思わない。

帰省を決めたのは、僕が、僕として、もっともっとお父さんと話しておけば良かったなぁ、と感じたからです。彼の死をもって、です。うしなって初めて気づくことがあります。それは往々にして、あります。もう彼は戻ってきませんし、当たり前だけれど、話すことなど、一切できません。事実として。


東京に出て行った手前、お父さんとはなかなか話す機会がなく、葬式では涙が少しも出ませんでした。もちろん今でも大好きだし、学ばせてもらったことがたくさんあるのですが。不思議だったなぁ。涙って出ないんだ、と思った。そんなこともあり、お母さんとは、なるべく長い時間を共有できたらいいなぁと思っています。

お母さんのことは、ごめんなさい、ちょっと嘘をつきました。救いたくはないが、助けたいです。自分の存在(自分が実家に暮らすこと)でもって、少しでも、彼女を助けられたらいいと思います。僕のお母さんは「先天性小脳変性症」と呼ばれる病を持っており、これからどんどん歩行が困難になっていきます。言葉を上手に話せなくなっていきます。

病は、ゆっくりじっくりとした進行を伴うのだそうですが、彼女はこれから先、確実に寝たきりになって、言葉をハッキリキッパリと話すことができなくなります。彼女を、少なからず今、おぼつかないながらも歩行器を使って歩ける、ゆっくりではあるが言葉を話せる彼女を、助けたい気持ちでいます。


「救う」と「助ける」は、似ているが、全然違います。まるっきり違う言葉です。

前者。「救う」とは、『危険な状況や困窮した状態、貧しい境遇、悪い環境にある人に力を貸したり、金品を与えたり、励ましたりするなどしてそこから逃れられるようにすること』だそうです。「済(すく)う」とも書くのだそう。救済です。救済。

後者。「助ける」とは、『不十分なところを補い、物事がうまく運ぶように手助けする。助力する。補佐すること』だそうです。「不十分なところ(彼女の歩行や暮らしのさまざま?)を補い(肩を貸したり洗濯物を代わりに干したり)、物事(生活)がうまく運ぶように手助けする」といったところでしょうか。僕とお母さんの生活で言うところは。


ここでひとつ、考えましょう。

僕、前者の「救う」は、町にも人にも、絶対にしたくないんです。

日高には、潮風も、カモメも、海も、変わらずありました。僕がこの町を離れている間も、ずっとずっと、変わらずに存在し続けていました。

お母さんも同じです。「母なる海」とはよく言ったもので。海と同じように、彼女は彼女なりの創意工夫をもって、じわじわと動かせなくなっていく手や足を一生懸命使い、生きています。存在し続けようと頑張っています。

自身の誕生日を待たず、冬に旅立った僕のお父さんのように、途中で命が途絶えてしまうかもしれない。でも、お母さんは、懸命に存在し続けようとしているわけでしょう。

町も、人も、同じです。内側にはきっと、意思があります。政治のことはあまりよくわかりませんが、町議会のみんなは知恵を絞って、日高の地域を良くしようと頑張ってくれていることでしょう。願いでしょう。祈りであり、愛情でしょう。

お母さんだってそうです。生きようとしています。意思を持っています。お父さんが生前、お母さんの暮らしのために、家じゅうに手すりを付けました。彼は、彼女を助けました。それも、お母さんに生きていてほしい、怪我をしないでほしい、と思っての行動でしょう。願いでしょう。祈りであり、愛情でしょう。


きっとそこに愛情が形をもって続いている限りは、たとえば僕が「救おう!!!」だなんて、おこがましいんです。うるせえんです。日高も、お母さんも、時に苦しくはあれ、それは日高にしかわからない。お母さんにしかわからないことです。

「救う」とは『危険な状況や困窮した状態、貧しい境遇、悪い環境にある人に力を貸したり、金品を与えたり、励ましたりするなどしてそこから逃れられるようにすること』であるなら(辞書が言うなら)ば、その「逃れられるようにすること」など、要らんのです。

より良くなってほしいとは、思います。心から、そう思う。日高の町も、お母さんの暮らしも、より良くなってほしい。ただ、海があり続けていたように、お母さんが懸命にも一人で暮らそうと意思を持ち生き続けていたように、そのままが良いってことも、あるんだと思います。「(日高やお母さんが今の状況から)逃れられるように」などとは考えちゃダメだよなぁ、と感じる次第です。「より良くなってほしい」であり「より良くしてあげよう」ではありません。情けをかけたくはない。

物事がうまく運ぶように手助けする、それは手だけでなく、有事の時には肩を貸せるようにいたい。一緒にいることで、そこに暮らすことで、わかることがありました。「不十分なところ(彼女の歩行や暮らしのさまざま?)を補い(肩を貸したり洗濯物を代わりに干したり)、物事(生活)がうまく運ぶように手助けする」と心に決め、日高にて暮らしていくことを決めた、近ごろです。少なくとも、月の半分は。半分実家暮らし、これからも楽しみだなぁと感じています。