先日、Podcast番組「オーディオブックカフェ」で一緒にパーソナリティを担当している、F太さんがこんなツイートをしていました。
これを読んだとき、「ああ、いまの時代なら“Podcastを一緒に録ろう!”が、その代わりになっているのかもしれない」と、ふと思ったんです。
「お茶しよう」「ゆっくり話そう」って誘いたい気持ちをコンテンツ制作という“言い訳”で包んで伝えられる。
まるで「お花見」や「お月見」のように、それを理由に、ゆるやかに集まることができる。Podcastって、現代におけるその継続的な仕組みづくりなんじゃないかなと思ったんですよね。
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この点、最近とある会食で出会った方が「いま雑誌をつくっていて、その初号の特集を『Podcast フレンドシップ』にしようとしている」というお話を聞かせてくれました。
今Podcastをはじめるひとたちは、発信よりも何かを大切な人と一緒に始めたくて、Podcastはそのちょうどよい手段になっているから、そんなムーブメントを特集で見せたいのだ、と。
この企画、めちゃくちゃおもしろいなあと感じましたし、すごくいい企画だなと思います。
つまり、「Podcastを始めませんか?」は、「月が綺麗ですね」の友人版みたいなもので、「僕ら(私たち)、これからも友だちでいませんか?できれば長く一緒に対話をし続けたいです」みたいな意味合いになる。
それを真正面から言ってしまうと「突然、どしたどした?」ってなるけれど「Podcast番組を一緒に始めませんか?」は、「おっ、いいね!」と素直に受け入れてもらえるちょうどいい“遠まわしの表現”なのかもしれません。
本当にいい目の付け所だし、いいトレンドだなあと思います。
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この点、人間が本質的に求めているものは、いつの時代もほとんど変わらないと思うんですよね。
人間という生き物は変わらず、いつの時代においても普遍的な人間的欲求を持ち合わせているわけだから。
ただし、時代ごとにその価値基準や、判断基準が異なるだけで。
たとえば、昔の場合には、それが和歌を詠み合ったり、句会だったり、井戸端会議だったり、季節労働的な手仕事だったり、社員旅行や社内運動会、給湯室や喫煙室の何気ない時間だったりしたわけですよね。
でも、今は良くも悪くもタイパ・コスパ重視の世の中です。
だから、ただ集まるということに対する罪悪感なんかも生まれやすい。なぜか時間を無駄にしたような感覚にも陥りがち。
そこには、何かしらの「生産性」があったほうがいいと感じてしまうわけですよね。
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で、それがきっと現代においては”発信”であり、コンテンツ制作にもつながっていく。
農村の手仕事だって、表向きは作業でも、実際は世間話の時間だったりする。田植えや野良仕事をしながら、人はふと本音をこぼすもの。
このあたりは柳田國男とか宮本常一の民俗学の本を読むと、とてもよく伝わってくるし、実際に自分でもそういった手仕事現場を直接訪れて、地元のおばあちゃんたちが、会話をしながら季節のおやつとお茶を飲みながら会話をしているシーンを見せてもらうと、本当にそれを強く実感します。
つまり、その時代その時代の「生きる」に欠かせない「生産性」がそれぞれにあって、その作業をこなすという、ある種の”言い訳”によって一箇所に集まって、その空間において、人間にとって「大切な何か」がポツポツと語られるという構造があるわけです。
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発信できるメディアとしての場がPodcastのように存在することは、現代では集まる言い訳になりやすいし、実際にそこで話されたことが、有益だったと感じてももらいやすい。
実際に話されたことがコンテンツとして世に出ることで「意味のある時間だった」と感じやすくなるんですよね、本当に不思議なことに。
とはいえ、じゃあそうやって集まるPodcastのような場において、発信力があればあるほどいいのかと言えば、それも違うと思っていて。
このあたりは、なかなかめんどうで厄介な話でもあるのですが、あまりにオープンすぎるのも違う気がしています。
なぜなら、他者の耳やまなざしが多すぎると、今度はよそ行きになってしまいがちだから。それだと、あまりおもしろくなくなってしまう。
このあたりの塩梅は本当にむずかしいなあと思うけれど、ちょうどいい緊張感のもと、本音を話せそうだなという気配が同時に両立していることが、ものすごく大事な気がしています。
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つまり、聴いてくれている人が少なすぎてもダメだし(そもそも発信しても意味ないじゃんとなってしまうから)、一方で耳と目が多すぎると緊張感がありすぎてストックフレーズしか話せなくなるのも違う。
僕もVoicyをすでに、3年近く配信し続けてきたわけだけれども、まさにそのような場所として、招きやすいホームとしてアットホームな雰囲気を構築してきたつもりです。
何をどんなペースでお話しても、誤解せず丁寧に聴いてくれる最高のリスナーさんたちが集まる空間を構築できているように思います。これは本当にありがたいこと。
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そして6月からは、新たにVoicyでプレミアム配信も始める予定です。表ではできない、ちょっとディープな話もできるように。
こちらも同じような意味合いのもと、もっと異なるホームをつくるような感覚です。
人前で話してみたい、でもなかなか表立って話しにくい。それをどうやって話してもいい空間をつくるのかという意味で実験的に始めていきたいと思っています。
最近も、最所さんと一緒に「九州コミュニティの深層」というテーマで、男尊女卑が甚だしいと言われる九州の保守的なコミュニティは本当に悪なのか?というテーマで、すでに収録済みです。
こちらも、ものすごくおもしろい内容となっていて、6月以降にまた配信予定なので、ぜひ楽しみにしていて欲しいです。
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で、もちろん、PodcastやVoicyのような音声配信のホーム(メディア)に限らず、Wasei Salonというコミュニティ自体もそうです。
定期的に開催している読書会や対話会、あとはもんさんが必ず毎週日曜日に収録してくれている「Wasei Salonのコミュニティラジオ」も、似たような機能を持ち合わせていると思います。
健やかな緊張感がありながらも、自分の頭で真剣に考えて、ゆっくりでもいいからちゃんと本音を話して、なおかつ、そこにしっかりと実りがあった!と思えるような、現代的な適切な「ホーム」となるような場を淡々とつくっているつもりです。
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思えば僕は、つねづねこうやって、本音で対話をできるような空間づくりをしていいるし、したいんだろうなと思います。
ウェブメディア「灯台もと暮らし」や「SUSONO」なんかもそうでした。
そして現代人が自然と「あっ、それなら参加してもいいかな!」と思えるような、なおかつちょうどいい”言い訳”がうまく機能していて素直に集えるような。
あとは、最近Wasei Salonメンバー向けに、こっそりと始めているトリートメント(鳥井と面と)なんかも、まさにそうです。
みんなが集まる立食パーティーのような空間の中で、何気なく挙がった話題をネタにしながら「ちょっと端っこのほうに行って、座りながらゆっくりふたりで話してみませんか」というような気持ちが強いです。
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僕はずっと、このお話しやすいホームをつくりだしたいと願っている。
それは僕自身、リアルの空間づくりはあまり得意じゃないから。
自分ができるのは、メディア的空間の中でそこに集まった人同士が、本音でしっかりと対話できるようにしていくこと。
なにはともあれ、現代人にとって、納得感のある”言い訳”があるなかで集える空間のニーズというのは、これからますます高まると思います。
繰り返しにはなってしまうけれど、人間の根本的なニーズや欲望は、いつの時代も変わらないのだから。だからこそ、それに合った“言い訳”を、時代に合わせて発明しつづけたい。
そして、その言い訳を通じて、少しだけでも自分の内面を言語化し、情報化してもらえること。それを丁寧に引き出させてもらって「対話前の自分」と「対話後の自分」が少しでも変化したと体感できるような。
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もちろん、なによりもそれを実際に見たり聴いたりしてくださっているひとたちにとって一番価値があるようにもしていきたい。
そうすれば、小さく、でも着実にそれぞれの想いは循環していくはずだからです。
そうやって、「挑戦」や「勇気」が伝染していくようなエコシステムをつくりだしたい。きっとそれがメディアを通してつながる、オンラインで生み出すコミュニティというものの真の価値だと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/05/19 18:57