昨夜、Wasei Salonの中でNHK出版学びのきほんシリーズ『三大一神教のつながりをよむ』の読書会が開催されました。
https://wasei.salon/events/22a2e21d1d9e
以前、「多元主義だけでは足りない。いま、対話に必要なものとは?」という記事の中でも、ご紹介したこの本なのですが、やっぱり読書会をすると、ひとりで読んでいたときには見えていなかった問いが立ち上がってきて、本当に楽しい読書会でした。
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さて、今回の読書会の後半、メンバーの山田さんからとても興味深い問いが投げかけられました。
それは、「本当に、お互いが理解し合ったほうがいいのか?」という問いです。
どうしても僕らは、こころのどこかで「お互いを理解し合ったほうがいい」と思ってしまっている。
「お互いのことを完璧に理解できることが、人間関係における最高のゴールである」という暗黙の了解のような気持ちというか幻想を、誰もが少なからず持っていると思います。
でも、果たして本当にそうなんだろうか。
改めて今日は、この問いについてこのブログの中で考えてみたいと思います。
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この問いを考えるヒントになるのが、最近、連日のようにご紹介している福田恆存の本になります。
『福田恆存の言葉 処世術から宗教まで』という福田恆存の講演録の中で、「お互いの理解」について非常に面白い一節がありました。
福田は「結婚にとって最大の障害とは何か」というテーマの中で、「自分はよく夫婦から身の上相談されることが多い」と語ります。
大抵の場合、それは「別れようか、我慢しようか」という話になるそうですが、そのときに男女どちらからも必ず出てくるのが「相手が自分のことを理解してくれない」という不満なのだそう。
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その時に毎回思い出すのが、オスカー・ワイルドの小説の一説だと語ります。
少し本書から引用してみたいと思います。
オスカー・ワイルドの短編小説の中に、確かある貴婦人が夜会を催して、その席上で若い男女が駆け込んできて、二人はお互いに理解し合った、だから結婚すると言ったらば、その貴婦人が「あら、大変。理解というのは結婚にとって最大の障害よ」と言う、ワイルドの逆説もあるんですが、これは、逆説とのみは言えない。
この話は、笑い話のように思えて、本当に本質をついているなと感じますよね。
そして、恋愛相談で男女どちらからも口にされる「相手が私のことを理解してくれない!」という不満は、本当に手に取るように想像がつくはずです。
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で、福田のすごいところは、この話の流れの中で、そもそも「自分」という存在が一番分かりにくいものだと指摘してくるのです。
こちらも本当に素晴らしいご指摘だなと思います。
それが一体どういうことかと言うと、僕たちが「相手は自分のことを誤解している」と感じている、それは多くの場合、「自分がこうありたいと願う『理想の自分』を相手が認めてくれない」という自分本位な嘆きに過ぎない、と福田は語るのです。
あまりにも身に覚えのある話であり、その切れ味の良さに、何かえぐられるような気持ちになりますが、でも本当にそのとおりだと感じますよね。
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で、福田はさらに、なぜオスカー・ワイルドが「理解は結婚の障害だ」と言ったのかを、より具体的な意味について、別の箇所でも詳しく説明していました。
以下で、再び本書から引用してみたいと思います。
人間が人間を理解したり、それから愛したりする場合の危険は、自分の理解の範囲内に相手を閉じ込めてしまおうとする、そういう危険があるわけなんです。
だから、ある意味で言うと、それは非常に、人を理解しているんじゃなくて、自分の理解力の満足を測っているに過ぎないという結果になりがちです。自分の理解している相手というもの以外の相手を見たくない。それ以上の相手を見ると裏切られたというふうに思うんです。これも人間の心理の摩訶不思議なところ。
これも、まさに目からウロコが落ちるような内容。
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あえて、ここでわかりやすい具体例をあげるまでもなく、誰もが身近なひととの間に、たくさんの似たような経験をしたことがあると思うのです。
「互いに理解し合う」ということは、とても美しく幻想的な響きに感じるけれど、でもそれは逆に言えば「相手を『自分の理解』という檻の中に閉じ込めてしまっている」ことにもなってしまう。
相手を理解した瞬間に「こういう人だ」と相手のことを決めつけ、そのイメージ通りであることを、常に期待してしまう。
そして、相手がそのイメージからはみ出すような、自分の知らなかった一面を見せたときに、僕たちは勝手に「裏切られた」と感じて、相手に対して失望してしまう。
そして「相手とは、もう金輪際は縁を切ってやる!」となってしまう。
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さて、ここまでの話を一旦まとめてみると、
相手が自分を理解してくれないと思うときは「自分の思う私を見て!」と見せつけて、相手がそれを理解してくれないと嘆くくせに、相手から不意にソレを見せつけられたときには、「そんなものは私の知っている『あなた』ではない。裏切られた!」と嘆く。
そう考えると、僕自身も含めて、人間という生き物は、なんて身勝手な生き物だろうと思ってしまいます。
で、こうやって考えると、お互いに理解するということは果たして本当に良いことなのか悪いことなのか、いよいよわからなくなってくるなと思うのです。
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では、一体どうすればいいのか。
当然、この問いに答えはないと思います。
ただひとつ、ここでハッキリと言えることは、むしろ、相手を完璧に理解しようと努めれば努めるほど、望まぬ方向に進んでしまう、その理由だけはよく分かってもらえるはず。
そして、以前もご紹介したように、「多元主義」的に「人それぞれだよねー」と理解したつもりになるのでもなく、「濃い部分をぶつけ合って、お互いに完璧に理解し合おうと努める」のでもなく、「どうせ分かり合えないと諦める」のも絶対にダメ。
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さて、このあたりで本当に困ったなと思います。
こんなにも、人間が他者と共に生きるうえで一丁目一番地でありそうな「理解する」という行為、幼稚園や小学校でいちばん最初に習いそうなことなのに、僕らは「お互いを理解する」ということさえも、その正解、正しいスタンスを提示できない。
人によっては、この問題意識さえも共有できないのかもしれませんが、これって本当に不思議なことだよなあと。
で、だとすれば、僕らができることは、この不思議さにハッとし続けること。その「わからなさ」に驚嘆し、それこそが相手への敬意の第一歩目なんだと思うことなのかもしれない。
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それは言い換えると、「あなたのことがわからない、もっと知りたいから、もっと教えて」という謙虚さを持つということでもある。
「あなたのことはもうよくわかったわ」は別れの言葉であり、「あなたのことがよくわらかない」という言葉こそ、愛の言葉であるという内田樹さんの話なんかにも見事につながる。
言い換えると、「わからない」は関係の断絶や失敗ではなく、むしろ関係の出発点であり、相手への尽きない興味と敬意の表明につながる、そう信じることなのかなと。
少なくとも、オスカー・ワイルドの小説に出てくる若いカップルのように、どこかで「お互いに完璧に理解できた」と思ってしまわないことが大事なんだろうなあと。
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昨日の読書会のなかで、にしじーさんもご紹介してくれていましたが、まさに「100分de名著」の中で伊集院光さんがおっしゃっていたコメントにもつながるなと思います。
改めてその言葉をこの場でもご紹介しておきます。以下はすべて伊集院さんご本人の言葉です。
「『諦める』ということは、『この人のことをもう知らなくていい』ということなので、完全な分断だと思うんです。そして、『答えが出た』ということは、そこで『偏見』が完成することだと思う。だから、一番大切なことは、『問い続ける』ことで、『よかれと思って言ったことがもしかしたら傷つけているかもしれない。じゃあ、こういう言い方をしたらどうなんだろうか』と思い続け、自分をバージョンアップし続けることではないか」
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繰り返しにはなってしまいますが、本来僕らが行うべきは、相手と自分のあいだに橋をかけることであって、相手を自分の理解という檻の中に閉じ込めてしまうことではない。
相手との間に「橋をかけ続ける」という不断の営み、そこに価値を見出す姿勢が本当に大事なんだろうなあと。
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そんな「不断の移行=移動する相」のなかでかろうじて、今日一日をやり過ごし、明日もまた一日をやり過ごし、そうやって、たとえその日暮らし的にであったとしても、相手との関係性に諦めることなく、常に橋をかけ続けていくこと。
そして、気づけば、どちらかが先にいなくなる。三砂ちづるさんの「人間関係に終わりはない」という話にも見事につながるなと思いますし、本当にその通りだなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。