最近、本当の意味で「人々の感情に寄り添う」とは一体どういうことなのかをよく考えています。
たとえば、わかりやすいところだと、「飢餓」と「飢餓感」の違いなんかはわかりやすい。
「あなたは飢餓じゃないよ、具体的には数字やデータ的にはこれだけ安定していて〜」みたいな話をされてみても「でも、私は今まさに『飢餓感』を感じていて、このどうしようもない飢えや乾きをどうすればいいんだ!」といった話は、よくあることだよなと思う。
一般的に先生と呼ばれる賢い人たちから、データや客観的な事実、論理的になだめられても居ても立っても居られない状態です。
ーーー
あとは、最近の政治の世界の話で言えば、外国人排斥問題とかもそうですよね。
「外国人の犯罪数は増えていない、ちゃんとデータと向き合ってください」と専門家や行政側に言われたとしても、いまこの瞬間に実際に「不安」を感じている私は間違いなく存在している。
それを「おまえの勘違いだ、幻想だ、客観的データや事実と向き合え!」と言い切ることはカンタンだし、それを様々なデータや論理的に証明することはカンタンであっても、そこに「犯罪が実在する不安感」を感じる私は、間違いなく存在している。
「この感覚をどうにかしてくれ…!」という市民たちからの叫びなのに、賢い人たちには、そこがまったく通じない。
ーーー
現代の対立って、まさにここにあるなと思うのです。
統計的には安全でも、その人の中で確実に存在する「不安」という感情はデータでは消せない「現実」であることをまったく理解していない。
言い方を変えれば、「統計データ」も「人々の中にある感情」も、どちらも紛れもなくこの世界の”現実”なわけですよね。
にも関わらず、片方を幻想だと割り切ってしまう態度というのは、逆に世界を見誤っているなと僕は思います。
その「感情」や「実感」に寄り添うことこそが現代に求められる知性や優しさのあり方ではないかと思うのです。
ーーー
他にも例えば、哲学用語でよく用いられる、「エポケー」という言葉。
哲学者・苫野一徳さんも頻繁にVoicyの中でこの概念について教えてくれていて、「実証不可能だから、一旦脇に置いておく」という説明をしてくださっていて、非常にわかりやすいのですが、そういう哲学的な態度を行えば行うほど「いま一体何を脇に置いたんだ!」って話になってしまう。
一般的な市民感情としては、「脇に置くということは、存在するということなんじゃないのか!」ということなる。
つまり、そうやってエポケーして一旦横に置かれるから、余計に「存在しない実態」として気になってしまうというジレンマってあるなと思うのです。非常にややこしい話ですが。
ーーー
あとは、仏教における「無記」みたいな話もそう。
ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」もそう。
それぞれのスタンスは、実際にそのとおりで、何ひとつ間違っていないわけです。
原理的、論理的に考えたら、誰もがそこに到達するという想定は真っ当ですし、自明の論理と言い切ることができる。
でもそこには、論理的にその次元に到達することができない人間の「感情」が完全に無視されてしまっているわけです。
ーーー
この点、どうしても賢い人というのは、頭でばかり考えるから、人間を本質的には理解することができなくなってしまいがちだなとよく思います。
なぜなら、自分は理詰めによって理解できるから。
「現役東大生は頭が良すぎて、ひとに教えるのが逆に下手だ」というのは、よく語られる話だけれども、自分にはカンタンにわかってしまったことほど、他者には教えられないし、寄り添えない。
何が感情的に反発する点なのかを、理解することができないからです。
そうやって、頭がいいひとたちほど一般市民感情から逸脱し、乖離していってしまう。
ーーー
そして、この一般市民感情、具体的には飢餓よりも、個々人の飢餓”感”に対して丁寧に寄り添うのが、文学の役割であって、最近だと『カフネ』という小説は、本当にそれを上手に描いていたなあと思います。
現代では完全にタブーになりつつある「ヒステリックな中年の女性」を主人公にしながら、彼女の中にある割り切れない「実存的な不安」に対して丁寧に寄り添う作品として描かれてありました。
だからこそ、あの作品が本屋大賞に選ばれるまで多くのひとに支持されて、今これだけ読まれているのだと思います。
ーーー
この架け橋のためのエンタメをどう作るのか。どうやったら、より本質へと導けるのか。
昨日のブログの内容ともつながりますが、現代はソレを真剣に考えなければいけないフェーズにあると思います。
飢餓”感”を感じるひとにたちに対して「そんなものはない!目を覚ませ!」とか、それは幻想なんだからと喝破してみたところで、それがあると実感してしまうし、そう思い込むのが人間なのだから。
そのような普通の人々に対して丁寧に寄り添い、どうやって安寧をもたらすのか、エリートはそのために頭を使え、と僕なんかは思ってしまいます。
原理の説明に固執するのではなく、です。
さもないと、現代の対立や分断は余計に深まるばかり。
これからは、教育格差だって余計に広がることを考えると、ここにはどうしようもないぐらいに埋めがたい溝が生まれてしまうと思います。
ーーー
で、これは、小乗仏教と大乗仏教の対立なんかとも非常によく似ているなあと思います。
そう考えると、鎌倉時代に、大乗仏教として「鎌倉仏教」がうまれた理由もよく分かる。
外国から入ってきた仏教という新しい教え、新しい哲学、新しい政治スタイルに対して聖徳太子のように「世間虚仮、唯仏是真」とすぐに悟り得るひとたちもいた。
そのあとに、みなさんご存知のとおり、日本の圧倒的なエリートとしての空海と最澄が続くわけですよね。
でも、大多数の一般人にとっては、そんな論理的な思考なんて、ほぼ不可能。
原始仏教的に「死後の世界なんてものはない!」と言ってみたところで、そんなことは信じられない。
「死後を思考するな、今ここに向き合え」といってみたところで、その存在しない死後こそを考えてしまうのが人間であり、人間らしさそのものでもある。
それまでずっと「神話」や「風土記」にしたがって、自分たちの人生観を描き、それを杖のようにして「誇り」を持って生きてきたのだから。
いまさらそれが、人間の錯覚や幻聴だと言われてみたところで、自分たちにとっての「世界」とはまさにその錯覚や幻聴とされているほうなんだ!と言いたくなるのは至極当然のことだと思います。
現代なら、きっとこの神話や風土記が、マンガやドラマ、そんなエンタメ的な「つくり話」がまさにソレにあたるのだと思います。
ーーー
そして、鎌倉時代は、既存の権威や難解な教えと、末法思想の中で不安に苛まれる大衆との間に、深刻な乖離が生まれていた時代でもあった。
そのときに、それでもどうしたら一般の人々を悟りの境地に導くことができるのか、それをド真剣に考えた人たちが同時多発的に現れた。
それが鎌倉仏教の勃興だったのだと思います。
まさに今と似たような構造ですよね。彼らはその分断を、必死で架橋しようとした。
だからこそ、親鸞は「南無阿弥陀仏と唱えさえすればいい、そうすれば極楽浄土へ行ける」と語ったわけですよね。
もちろん、親鸞だけに限らず、道元だって、一遍だって、日蓮だって、各々のやり方で導こうとしたのだと思います。
彼らは、民衆が抱える「死への恐怖」「現世での苦しみ」といった、否定しようのない「現実」から目を逸らさず、それらを丸ごと引き受けた上で、悟りという「本質」へと至るための「橋渡し」として、物語やシンプルな実践を創造したのだと思うのです。
それは決して民衆を「騙した」わけではなく、彼らの視座まで直接下りていき、共に歩もうとする、深い慈悲の現れだったのだと僕は思います。
ーーー
この橋渡しのあり方について、いま一度真剣に考えたいなと僕は強く思う。
原理の強度、その確からしさよりも、です。
確かに原理としては、すでに完璧に確立されて、洗練されているものが存在するのかもしれない。
でもその原理も、あくまで原理であって、人間の「こころ」に対しては寄り添っていない。
さらに言えば、その原理でさえも、もともとは人々の幸福のために生まれてきた原理であるはずです。
だとしたら、原理や真理だって必要であれば、一時的にそこから離れる勇気は必要だと思うのです。
ーーー
にも関わらず、人々の不安はそっちのけで、その原理を主張するのが、現代のエリートたちです。
それゆえに「これだからエリートは…」と呆れられてしまうし、その庶民の絶望に寄り添うポピュリズム政治家たちに、漬け込む隙なんかも同時に与えてしまう。
そしてその騙すポピュリスト側と騙される大衆側を同時に眺めながら「なんてバカなヤツらなんだ!世も末だな…」とエリートは嘯くわけですよね。
そして、より一層、自分たちが原理原則によって啓蒙しなければならないと思い込み、余計に上から目線になってしまうから、更にエリートが嫌われるという悪循環。
まさに現代のリベラリズムのスタンスそのものだと思います。
それだとあまりにも本末転倒だし、一体なんのための原理なんだ、と僕なんかは思ってしまいます。
ーーー
そうじゃなくて、本当の意味で「共に到達したい点に到達するためにはどうすればいいのか」を考えたい。
客観的には飢餓ではなくても、飢餓感のような不安や怖れに対して丁寧に寄り添い、そのうえで、どうすればその不安や怖れから解き放たれることができるのかを共に考えたい。
そして、このときにおいては、いや、このときこそ、ある種の邪道や「つくり話」、エンタメ的要素を盛り込んでも許されるのだと思うのです。
そうしない限り、決して万人には受け入れてもらえないのだから。
そして、その邪道や「つくり話」を経由したうえで、本当に到達したかった場所、世の中をより良い方向へと共に目指していく。
そのときに、はじめて先人たちが指さしてくれていた「月」を目指すことができる。
ーーー
今日書いてきたような態度やスタンスが、原理に到達できた人間の定めでもあり、責務だと僕は思います。
原理だけに安住していてはいけない。嘘も方便とは、まさにそういうことだと感じます。
少なくとも、相手を論破し、間違いを正す先に未来は存在しない。そうではなくて、相手の「実感」の奥にある願いや痛みをありありと「現実」のものとして想像をする。
そして、そこから対話を始めてみる。その先にしか、真の融和や安寧はないと、僕は思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/07/29 20:35