先日、Substackについて「新しい場所には必ず、新しい距離感がある」という文章を書きました。


関係性を壊しすぎないまま、もう一度テキストで偶然の出会いを起こしていく場所。

そんな新しい距離感を、Substackでは試すことができるのではないかと思ったのです。

ーーー

ただ、その文章を書いたあとで、もうひとつ考え続けていることがあります。

それは「その新しい距離感の中で、僕たちは一体何を書けばいいのか」という視点。

距離感だけが整っても、そこで書かれるものが、これまでのXやnoteとまったく同じであればあまり意味がない。

新しい場所には、新しいふるまいがある。そしてたぶん、新しい場所には、新しい書き方もあるはずなんです。

じゃあ、Substackのブログ記事で書くべきものは何なのか。

ーーー

まず、これを普通に考えれば、それは自分の専門性を活かした文章なのだと思います。

長年考えてきたことや専門家としての視点。たしかに、それはとても正攻法のように見えます。

でも最近の僕は、むしろそれこそが、Substackでは意外にも逆効果になってしまうのではないかと感じています。

それだとなんだか「建前」になりすぎてしまうなと。

すでにわかっていることを、わかっている人として語ると、それは情報としては正しいし、解説としても役に立つのだけれど、その文章には、書き手自身が何かに出会い直している感じが薄くなってしまって、正直読んでいてつまらない。

ともすれば、正しさだけが整った、体温が宿っていない文章になってしまう。もしくは、なんだか他人の反省文を一方的に読まされているような感覚なんかにも近くなってくる。

ーーー

だから、Substackで本当に書くべきものは、専門家としての完成された意見ではなく、もっともっと手前にあるものなのではないかと思っています。

自分でもまだよくわかっていないこと。世間ではこう言われているけれど、どうも自分の身体だけが納得していないこと。

そういうものを、読者の前で少しずつほどいていく文章のほうが僕は読みたいし、自分でもも書いてみたいなと思わされる。

ーーー

で、この点、松浦弥太郎さんは『エッセイストのように生きる』という本の中で、エッセイについて「秘密の告白」だと語っています。

この言葉を最近改めてふと思い出し、ああ、Substackで書くべきものは、まさにこれなのかもしれないと思いました。

ここでいう秘密とは、もちろん誰にも言っていないスキャンダルのようなものではないです。

もっと静かで、もっと日常的なもの。自分でもまだうまく言葉にできていなかった本音や、見過ごせば消えてしまう小さな感情の揺れみたいなもの。

自分自身の立ち位置が少し変わってしまいそうな違和感を、ただ感情的に吐き出すのではなくて、丁寧に見つめ直してみる。

そして、いちいち立ち止まって考えてみるわけです。そうやって、自分でも知らなかった「自分の価値観」に新たに出会っていくその過程。

たぶん、それが「秘密の告白」としての文章なのだと思います。

ーーー

この「秘密」という言葉がいいのは、それが最初から答えとして存在しているものではないところなんですよね。

秘密は、書き始める前から完全にわかっているわけではない。むしろ、書きながら少しずつ見つかっていくもの。

そうやって、書く過程の中でようやく発見されるもの。その発見の過程そのものが、エッセイやブログを書くという行為なのだと思います。

ーーー

また、松浦さんは、エッセイのテーマについて「自分がとくに詳しいジャンルは向いていない」とも書かれていました。

その理由としては、わかっている人が、わかっていることを書いている文章は、とてもつまらないからだ、と。

これは本当にその通りだなと思います。

専門家の専門的な知見から書かれる文章(エッセイ)がつまらない理由なんかにも見事につながる。

そこには、新たな「発見」がないわけですよね。だから、文章はどこか堅苦しく、講演メモのようになり、ドンドンと建前っぽくなってしまう。

Xなら、それでいいのかもしれません。短く、強く、わかりやすく言う。専門家としての権威性を振りかざしながら、意見を提示することが、いちばんバズを生みやすいわけですから。

同様に、noteでも、整理された知見やまとまった解説は非常に相性がいいと思います。

でも、Substackで読みたいのは、それとは少し違うものなのではないか、と僕は思っています。

ーーー

で、ここまで書いてきて、これは自分自身への戒めでもあるなと感じています。

僕もきっと、Substackで「わかっている人」として書こうと思えば、いくらでも書けてしまう。

僕ももうアラフォーで、それなりに長く考えてきたことはあるし、「ブログ」や「インターネット上で文章を書き続けること」に対しては、自分なりの明確な意見なんかもある。

そのうえで、専門的な見解らしきものも書こうと思えば、いくらでも書けると思います。

でも、たぶん本当に怖いのはそこなんですよね。

わかっている人として書いた瞬間に、自分がいちばん書きたかったことから遠ざかってしまう。

そして、きっと本当に出会いたかった人たちとも、出会えなくなってしまう。

ーーー

僕がSubstackで試したいのは、まだ自分でもうまく説明できない違和感を、ちゃんと違和感のまま差し出すこと。

とはいえ、正直に言えば、僕自身も賢く見られて、ちゃんと考えている人だと思われたい欲望が一切ないと言えば嘘になる。

Substackという新しい場所でも、気を抜けば、すぐに「わかっている人」として振る舞ってしまいたくなるということです。

昔のTwitterやブロガーの雰囲気、SNSの勃興サイクルも既に知っていて、何度も観てきた風景だ、と断言したくなる。

でも、そうじゃないんです。そうやって断言してしてしまうと、大事なものを見失ってしまう。

ーーー

たしかに似ているところもあるかもしれないけれど、違うところだって同じぐらいたくさんある。着実に螺旋階段上に登っている。

以前も観たことがあるような景色だけれど、でもそこには10年経過したからこその「新しさ」や「前とは違うところ」が必ずあるはずで、それを探りたいし、そこにしっかりと驚きたい。

だからこそ、これは自分に向けて書いている文章でもあるわけです。

「ちゃんとした意見」ではなく、そんな「まだうまく言えないような秘密」を書けるかどうか。

そこに、いまの自分が試されている感覚が強くあります。

そう考えると、これは単なるプラットフォーム論ではなく、自分がこれからどう書いていきたいのかという話でもあるのだと、いま思いました。

ーーー

こうやって考えてくると、エッセイやブログとは、その意味で「小さな自分自身の哲学」なのだと思います。

大きな思想を語ることではないし、難しい概念を使うことでもない。日々の中で自分が感じたことを、流し見せずに、いちいち考えてみること。

その積み重ねの中で、自分が本当に大切にしたいものが少しずつ見えてくる。

そして、僕がSubstackに期待しているのも、まさにこの「小さな哲学」の部分なんですよね。

しかもこれはXやnote、そしてPodcastブームとAIの勃興何かを一通り経由してきたからこそ、いままさに生まれつつある、古くて新しい価値観でもある。

その「生まれつつある」状態に対して、もっともっと感動したいし、その秘密自体を読み手のみなさんと共有したい。

ーーー

ただし、ここでいう「小さな哲学」は、頭の中だけで抽象的な概念をこねくり回す、という意味ではありません。

むしろそれは、自分の暮らしや生活に、もう一度言葉を「接地」させることなのだと思います。

以前、「手仕事の言葉」について書いたときにも考えたことですが、AI時代に大事になるのは、人間が書いたかどうかという単純な話だけではない。


大事なのは、その言葉が一体現実のどこに接地しているのか、ということです。

ーーー

エッセイにおける「秘密の告白」の感覚も、きっとそれに近い。

ただ頭の中にある考えを書くだけではなくて、自分の暮らしの中で、なぜか心に残ってしまったもの、先人たちから受け取ってきた文化や記憶とどこかでつながっているもの。

そのコンテキストや文脈にちゃんと敬意を払って、思いを馳せて、言葉を接地させていくこと。

この私が「私」であるからこそ、どうしようもなく、持ち合わせてしまっている、家族とか地元とか理不尽な仕事とか、そういう「非合理なもの」との関係性の方が、実は圧倒的にリアルだし、そこから生まれるものが、生活者の「手仕事の言葉」なのだと思います。

そうやって、自分の生活に根を下ろした問いを、いちいち丁寧に考えてみて、自分の身体や暮らしや人間関係に触れているからこそ、そこからしか出てこない秘密が見つかる。

そして、その秘密を、まだ完全には整っていない言葉のまま、読者に向けてそっと差し出していく。それが、きっとSubstackで書きたい文章だし、いまSubstackに集まるようなひとたちが読みたい文章なのだと思います。

ーーー

ここで大事なのは「だから、あなたの専門性を捨てろ」という話ではありません。むしろ、専門性はあったほうがいい。

長く考えてきたことがある人や、ある分野に深く関わってきた人たちの文章には、やはり厚みがありますからね。

ただし、その専門性を「答え」として差し出した瞬間に、文章はつまらなくなることがあるんだ、ということをここでは強く主張したいのです。

専門家として「わかっていること」を書くのではなく、専門家であるにもかかわらず、まだわからないことを書く。

松浦さんは、「詳しくなるまでの途中」こそが、エッセイの宝庫だと語っていました。

多くの人は、詳しくなってからテキストを書こうとしてしまいがち。

でも、エッセイにとって本当におもしろいのは、むしろその途中にある。その「途中」にこそ、あなただけの秘密が眠っているよ、ということです。

よく知っているからこそ、見逃してしまっていたものに、もう一度出会い直す。

そのときに文章は、ただの解説や論文ではなく、エッセイ(ブログ)になるということです。

ーーー

だから僕は、自分のブログを、なるべく「わかっている人」として書かないようにしたい。

むしろ、まだよくわかっていないことを、よくわかっていないまま、それでも忘れたくないものとして、自分の人生の発見の過程を書き残していきたい。

その途中で、自分でも知らなかった秘密に出会い、そして、その秘密自体が、どこかで誰かの秘密とも重なることを淡く期待したい。

僕だけの話だったはずなのに、もしかしたらこれはあなたの話でもあるのかもしれないという形において、そういう静かな交差点が生まれる場所として。

SubstackやWasei Salonの中で期待しているのは、たぶんそういう古くて新しい出会いなのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。