改めて、Audibleで朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を聴き終えました。

この本については、去年の秋にも何度かこのブログで書いています。

そのときの僕は、この作品を「現代を生きるうえで、視野は広いほうがいいのか、狭いほうがいいのか」という問いとして受け取っていました。



いま読み返してみても、その読み自体は決して間違っていなかったと思います。

実際この小説には、視野の広さゆえに冷徹に見える人物もいれば、視野を狭めていくことでむしろ、人間味や幸福感を帯びていく人物もいる。

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ただ今回、改めて音声で聴き直してみて、あのときよりもう少しはっきり見えてきたことがありました。

それは、「視野」という言葉の登場回数の多さ、です。

本当に、何度も何度も「視野」という言葉が出てくる。

Audibleで聴くと、同じ言葉が反復されるたびに、その響きの不穏さみたいなものが、耳にまとわりついてくるんですよね。

今日は、この二度目の読書体験を通して感じたことをアップデート版として改めて書いておきたいなと思います。

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この点、一般的には「視野を広げる」というのは、いいこととして語られます。

狭い見方に閉じこもるより、多面的に見たほうがいい。自分の感情だけで反応するのではなく、一歩引いて「構造」を横断的に見たほうがいい。

視野という言葉でなくても、メタ認知できたほうがいい。俯瞰できたほうがいいという言葉は、もはや現代人の常識みたいになっています。

でも、今回聴き直していて強く思ったのは、この小説が批判しているのは、視野の狭さそのものではないということです。

むしろこの小説が疑問を投げかけているのは、「視野を広げ続けることだけが成熟である」と信じられている時代のほうなのだと思います。

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作中では、視野を広げれば広げるほど、自分が何をすべきか逆にわからなくなる感覚が、かなり執拗に描かれています。

そうやって広く見れば見るほど、今度は何をしてもどこかで間違っているような気がしてしまう。何を選んでも、誰かに対して鈍感で、何かを取りこぼしているような気がしてしまう。

最後には「もう、自分に疲れてしまった…」としか言えなくなる感覚が、はっきりと語られている。

これはたぶん、若い人を中心に、今の時代にかなり広く共有されている感覚でもあるなと思うのです。

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世界で起きていることを知る。構造を知る。加害と被害の連鎖を知る。自分の消費や快楽や所属の先に何があるかを知る。

そうやって視野を広げていくほど、正しさのジャッジだけがどんどん増えていく。

それなのに、自分の身体はひとつしかない。時間も、気力も、生活もひとつしかない。だから、どこかで人は逆に、視野を狭めたくなるのだと思います。

というか、狭めないと生きていけなくなる。生活がままならないわけです。東浩紀さんの『平和と愚かさ』でも語られている論点そのもの。

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で、去年のブログでは、そのことを「現代を生きるうえで、視野は広いほうがいいのか、狭いほうがいいのか」という問いとして書きました。

で、あのときの僕は、どちらかに割り切らないほうがいい、それでも問い続けたほうがいい、と結んでいました。

いまも、その気持ちは変わっていません。

ただ今回、二回目に聴いてみて思ったのは、この小説の重心は、単純に広いか狭いかの比較にはないということでした。

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たとえば、主人公の女子大生、ちゃみするというハンドルネームの子が登場する。

一回目に読んだときは、「意識高い系の学生→推し活への転身」という流れを、どこかでこちらが勝手に転落のストーリーとして読んでしまっていた気がします。

でも二回目に聴いてみると、彼女自身は一度もそこを単純な後悔としては語っていない。他の登場人物は必ず後ろめたさや無意識の声みたいなものが描かれてあるのに、彼女だけは本人の実感としては、一貫して幸福のほうへ寄っているようにすら見えるんですよね。

もちろん、それは外から見れば危うい多幸感なのかもしれない。操作されている幸福なのかもしれない。

でも少なくとも、本人の内側では、ちゃんと「幸福」として存在している。

ここが、この小説のいちばん不気味でいちばん誠実なところだなと思います。

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つまり朝井リョウさんは、「視野が狭いからダメなんだ」とは書いていないんです。

むしろその逆で、視野を広げすぎて自分を疲弊させてしまう人のほうを、かなり冷たく見ている。

そしてその反対側で、物語に没入し、視野を狭め、仲間とつながり、自分の役割を明確に感じられることで、実際に救われている人たちのことも、ちゃんと描いている。

ここが、すごくいやらしいんですよね。

なぜなら、視野を極端に狭めることは、たしかに人を救うからです。

でも、この小説は同時に、その救いこそが最初から「狙われてもいる」ことも描いているわけです。

そういう人たちが、推し活の運営やマーケターの側から、もっとも重要なターゲットとして分析され、育成され、刺激されていく。

作中では、物語に没入して視野を狭められること自体が「ある種の才能」とまで言われ、その才能に恵まれた人を逃さないために、物語を与え続けるのだ、と語られます。

ここで描かれているのは、単なる推し活批判ではない。

もっと広く、今の時代において、人はどうすれば深く没入をし、どうすれば熱量を高めて自分から拡散や布教に走るのかという、かなり露骨な設計だなと感じました。

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そして、だからこの小説は、怖い。

没入が危険だから怖いのではなくて、そういう過度な没入がほんとうに人を救ってしまうからこそ怖い。

そして、その怖さは、去年この本を読んだときよりも、今のほうがさらに切実に感じられるようになった気がします。

それはこの半年足らずの時代の変化でもヒシヒシと感じる。

というのも、最近よく思うのだけれど、「視野を広げる」という営みそのものが、もう人間の固有能力ではなくなってきている気がしています。

むしろ、それはAIのほうが、ずっと得意になってしまった。

複数の視点を束ねて、過去と現在をまたいで構造を描くこと。世界規模で比較し、エビデンスを整理して、反対意見まで含めてキレイに並べること。

そういう文字通り「時空」を超えた「視野」なら、もうAIのほうがよほど上手にやってしまうわけです。

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その意味では、僕たちが長いあいだ「成熟」と呼んできたもののかなりの部分は、いまや人間の特権ではなくなっている。

それなのに、なお人間だけが「もっと視野を広げろ」「もっと構造を見ろ」「もっとメタ認知しろ」と求められ続けている。

これは本当にかなり残酷なことだなと思います。

だって、こちらが必死で俯瞰しようとしているあいだに、その競争の頂点には、圧倒的なAIが君臨しているわけですから。

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また、その結果、何が起きるのか。

どんどん自分の身体的な感覚のほうが置き去りになっていくわけです。

何が嫌だったのか。何に身体が反応したのか。何を放っておけないと思ったのか。そういうことを語る言葉が、どんどん貧しくなっていく。

だからこそ今、あちこちでその揺り戻しが起きているのだと思います。

「あなたの身体性のほうが大事なんじゃないですか。あなたが実際に触れたもの、見たもの、腹が立ったこと、救われたことのほうが大事なんじゃないですか」

そういう問いが、いろんなかたちで急激に復興してきている。

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もちろん、構造の話も大事です。

「それは個人の問題じゃなくて構造の問題だ」という指摘は、多くの場合ほんとうにそのとおりだと思います。

でも、構造の問題だとわかった瞬間に、今度は誰も引き受けなくてよくなってしまう。

全員が少しずつ被害者で、少しずつ加害者になる。少しずつ正しくて、少しずつどうしようもないほどに間違っている、それで話が終わってしまう。

けれど現実には、どこかで誰かが「それでも私はこうする」「私こそが悪かったんだ」と引き受けないと何も始まっていかないわけです。

いま必要なのは、さらに広く見ることではない。さらに本質的になろうとすることでもない。

最後の最後に必要なのは、有限な視野しか持てない自分自身を引き受けることなのだと思うのです。

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去年のブログでは、僕は最後に「だからこそ、問い続けたい」と書きました。

たぶんあの時点では、それがいちばん誠実な書き方だったと思います。

けれど今回、二回目に聴き終えて残ったのは、問い続けることの大切さだけではない。

問い続けた先で、どこかでちゃんと人間としてその都度ごとに引き受けなければならない、その繰り返しこそが大事になってくる。

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哲学者はよく「哲学者の役割はビッグピクチャーを描くことだ」みたいなことを言います。でも、一般の人は、たぶんそこまで大きな地図を求めていない。

むしろ、広すぎる視野からこちらの生活に向かって正しそうなことを投げかけてくる、そんな偉そうな態度そのものに、疲れているのだと思います。

しかも厄介なのは、そういうふうに視野を広げて語る人ほど、「それが人々をうんざりさせ、むしろ狭い世界へ引きこもらせている」ということに、気づきにくいことだなあと。

視野を広げろという善意の呼びかけが、結果として人々の視野をドンドン狭めている。そんなジレンマが、現代にはたしかにあるように感じます。

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だからこそ、最後に残る人間の仕事は、世界を見渡すことではなくなるのかもしれない。

そういうことではなくて、どこかの「狭さ」を自らに引き受けること。

目の前の相手や場に対して、自分の身体の大きさで関わり、不完全な視野のまま、それでも人間としての判断をし、その責任を持つこと。

世界を全部見渡せるわけではない。むしろ、そんなことはもうAIのほうが上手にやる。

でも、だからといって人間が不要になるわけではない。人間の視野では全部を見渡せないからこそ、どこかでその狭さ自らに引き受けることに意味があるのだと思います。

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最後にまとめてみると、去年の自分は、この小説をきっかけに「視野は広いほうがいいのか、狭いほうがいいのか」と問いを立てました。

いまの自分は、その問いを少しだけ言い換えておきたい。

大事なのは、視野を広げ続けることだけが成熟だと信じ込まされている時代のなかで、それでも自分の有限な視野を引き受けられるかどうか、なのだと思います。

『イン・ザ・メガチャーチ』を二回目に聴き終えて残ったのは、そんな当たり前のようでいて、実は今いちばんむずかしい問いにぶつかってしまったというお話でした。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。