先日、こんなツイートをしてみました。

この例はweb3のような生まれたばかりで新しい概念だから手にとるように理解できるし、非常にわかりやすい例だけど、僕らの脳というのはずっとこれをやり続けているのだろうなとハッとしました。

そのスパンが1日なのか、10年なのか、1000年なのかの違いでしかない。

結局のところは、脳や意識というのは「並列化」や「同一化」するための機能だけを持ち、そのための器官でしかない。

そう考えると、養老孟司さんがいつもおっしゃっているように「私の考えていることが個性だ」と思うこと自体、本当に大きな大きな誤解だということがよく分かります。

いつだって僕らの脳は、並列化や同一化に向かうような仕組みを担っている。

個性というのは、むしろ並列化の方向には絶対に向かえない「身体」のほうなのだろうなあと。

これと似たような話は先日のブログにも書きました。詳しくはぜひこちらの記事を読んでみてください。

参照:身体性から立ちあらわれる私の感覚こそが、ひとりひとりの個性。

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この点。生まれたばかりの赤ちゃんを眺めていると、日に日に人間は変化をし続けているのだと体感的に理解できる。

そして数年も経過すれば、赤ちゃんはまったくの別人になっています。

でも大人になると、それを目で見て理解することは難しくなる。ただ本当は大人の中でも同様のことが起きているはずなのですよね。

この赤ちゃんを眺めるような感覚で、web3を眺めていると、人間同士の「同期」も目に見える形で高速で行われているから、すぐに今回のように気づくことができました。

この感覚が腑に落ちただけでも、web3という移り変わりが非常に激しい世界を、いま自分自身で学んでみている体験の意味はとても大きかったなと思っています。

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では、「身体」が個性だとしたら、その「身体」を一体どうすればいいのでしょうか。

一つは、身体をその「わからなさ」に浸してみる、ということだと思います。

僕は、日本全国、実際に足を運んで自らの学びを深めようとしているのですが、それを見ている知人・友人からは「なぜ、わざわざ現地まで赴くのですか?」って質問は本当によく聞かれます。

でも、僕にとってはその質問ってどこか焦点がズレているような感じがして、それは「何もわからない」からであってそれ以上でも以下でもない。

ネット上でどれだけ何か雑多な知識を仕入れてみても、それはわかった気になっただけで、本当は何もわかっていない状態だと思います。

それが養老孟司さんがずっと言いたい「バカの壁」なのだと思うのだけれど、これが本当に伝わらない。ネットで見聞きして、もう自分はわかっていると思い込んでいるひとに対して「おまえは本当は何もわかっていない」ということを理解してもらうことほど難しいことはない。

脳や意識だけをネット上に浸して、わかった気になるのではなく、実際に現地に身を浸してみることが大事。

たとえば温泉なんて、その際たる例だと思います。

どれだけ高解像度で、その温泉の映像や知識を仕入れてみても、本当の自分にとっての効果効用は理解できない。

しかし、一度自らの身体を浸せば一瞬にして直感的な何かは自分の中で立ちあらわれるはずです。

ちなみに、なぜ唐突に温泉の例を出しているのかと言えば、先日訪れた島根県・石見銀山にある「薬師湯」が本当に素晴らしかったから。

日本全国、様々な温泉にこの身を浸けてきたけれど、ここはぜひとも実際に行ってみて欲しいなと思える温泉のひとつです。

参照: 薬師湯 温泉津温泉 〜 石見銀山 世界遺産の温泉 〜

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で、話をもとに戻すと、このような感覚に気づきはじめると、今度は次の大きな大きな落とし穴が待っている。

「身体を浸す=わかる」だと思って、現場至上主義者みたいになっていくのですよね。

現場に行ったヤツが一番偉いという誤った価値観を身につけてしまうのです。

言い方を変えると、「現場に行った自分は、もうすべてが分かっている」というような全能感を抱いてしまう。

このような勘違いをした人間は「おまえは現場に行ったことがないから、まだわかりきってはいないだろう」と説得できる余地がまだ残っている人間よりも、より一層たちが悪くなります。

実際のところは、現場に赴き自らの身体を浸すと、より一層わからなくなってしまうというのが本当のところだと思います。

そう、現地に赴くとより一層「わからなさ」は増していくのです。

でもだからこそ、実際に現地に行ってみる必要がある。

ものすごく抽象的でわかりにくい話をしている自覚はありますが、とっても大事なことだと感じるから、これは書かずにはいられません。

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きっと僕らは今一度、「わかる」という言葉の本当の意味を問い直してみたほうがいい。

「わかる」とは、「自らのわからなさを認めて、それでも問い続ける」その過程の中にしか存在しない。

そうやって常に手が届かない状態にあるものを、追い続けている状態や運動だけが、唯一「わかる」に一番近づける方法。

でも、絶対にその「わかる」には到達不可能なのです。

この謙虚さを維持している間だけ、後ろ姿をチラチラと見せてくれる女神のような存在が「わかる」という状態に一番近づく方法なのではないかと思います。

決して真正面からその全貌を見ることは不可能。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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