最近あらためて強く思うことがあります。
それは、僕らがオンラインの場に持ち寄るべきものは「正論」や「正義」そのものではなく、もっともっと地味なもの。
それがタイトルにもあるように、譲り合い精神なんじゃないか、ということです。
先日配信した、F太さんのゲスト回で話した内容も、まさにこの感覚でした。
「なぜ今、デジタル民主主義やAI民主主義に、こんなにも期待が集まるのか。そして、なぜみんな『チームみらい』に投票したくなるのか」という話の流れから、話題は自然とインターネットの昔の雰囲気へと遡っていきました。
昔のインターネットは、いまのSNSよりもずっと不便で荒削りだったはずなのに、なぜか成立していたという話です。
それを支えていたのは、集まる人々のリテラシーの高さや当時の制度でもなく、たぶん譲り合い精神だったはずなんですよね。
今日はそんなお話になります。
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まず、あのF太さんとの話を振り返ると、昔のSNSではよく見かけた「連投すみません」という一言。
でも最近は、ほとんど見かけなくなった。それは、なぜか。
いまのSNSはアルゴリズムが前提になっていて、同じひとつのタイムラインを共有している感覚を、僕らがもう持てなくなってしまったからだと思います。
誰もが同じ川の流れを眺めているわけじゃない。それぞれが別々の支流を見せられている感覚です。
そうなれば、とにかくアルゴリズムをハックするように書いたもの勝ち、みたいな発想になっていくのも当然です。
「場所を取ってごめんね」という感覚も消えていく。そもそも「場所」を共有している実感がまったくないわけですから。
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ちなみに、このことを考えるきっかけになったのは、オシロさんのタイムライン機能がきっかけでした。
オシロさんのタイムラインは、初期のTwitter同様、単純に時系列で並ぶだけ。
そして、Facebookや最近のXみたいに、長文が「続きを読む」で折りたたまれない仕様です。それに対して、正直、最初は不思議だったんです。「なんで折りたたむ仕組みを、実装しないんだろう?」と思ったこともありました。
でも最近は、むしろ折りたたまれないほうが良いのかもしれないとも思うようになってきました。
折りたたまれないからこそ、そこに各人の配慮や親切心が立ち上がってくる。ひとつのタイムラインを共有している感覚が、そこに立ちあらわれてくる。
折りたたまれないことによって、「つまらないものですが…」とか「場所を取りすぎないように、続きはコメント欄に書きますね」という配慮が、勝手に生まれてくるわけです。
こういう感覚って、個人ひとりひとりの性格の良し悪しというより、場が勝手に引き出すものだと思うんですよね。
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「ここは共有スペースだから、ちょっとでも他のメンバーのことを考えて整えて置いておこう」という姿勢が、自然に滲み出てくる。
この小さな譲り合いの作法そのものが、コミュニティをより良い場にしていく。
主張しすぎず、かといって謙遜もしすぎず、他者と一つの場を分け合って生きるんだというその自覚です。
それこそが、本当は人間社会が持ち寄るべき感覚なんじゃないか、と。少なくとも日本的感覚として、僕にはそう思えるのです。
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この点、最近読んでいた、松岡正剛の『擬 MODOKI:「世」あるいは別様の可能性』という本の中でも「お裾分け」という考え方を説明する時に、以下のような話が書かれてりました。
お裾分けとは、貰ったものや贈られたものの一部を親しい者や近隣の者に再配分することをいう。再分配ではあるけれど、裾で分けるだなんてなんとも日本的で、なんとも互酬的な贈与感覚をあらわしたものだ。そもそも日本では「分ける」が「分かる」で、そのように分けたくなることが「ものわかり」であって、分際とか分限というものなのである。
似た言い草には、「心ばかりのものですが」とか「粗品ですが」がある。人にあげるのに控え目にする。「つまらないものですが」とも言う。つまらないものなら持ってこなければいいのだが、ここにも贈呈者が提供する相手の気分を圧迫したくないという心情がはたらいている。そんなふうに相手に負担を与えないところが、日本的な贈与感覚だ。
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もちろん、自己主張や表現意欲を最大限に発揮することは大事だとは思います。
またそのような表現が、爆発的に広がっていく仕組みや物理的な空間の設計も大事であることは間違いない。
特に、何億人という人間が日々触れているビックテックのSNSにおいては、そうせざるを得ない事情もあると思います。
でも、数千人から数万人規模ぐらいまでの小さなコミュニティに大事なのは、譲り合う感覚が各々のユーザーに先にあることだと思うんですよね。
その「親切心が立ち上がる瞬間」に、僕らは初めてそこにコミュニティや共同体を作り出すことができる。
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逆に言えば、そこを全部すっ飛ばして、仕組みや構造だけで解決しようとすればするほど、僕らが本当は欲していた共同体が一向に立ち上がってこないジレンマを抱えてしまう。
主張されていることが、どれだけ美しい正論であり、正義であり、真理だとしても、です。
むしろ、それが純粋無垢あればあるほど、むずかしくもなっていく逆説がそこにはある。
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人間は誰しも「自分こそが正義だ」と思っています。
だからこそ、今の主義主張やライフスタイルを、それぞれに選び取っているわけですよね。
そして「単純に噛み合っていないだけ」「届くべき人に届いていないだけ」だと思ってしまう。だから余計に、アルゴリズムや構造をハックする方向に向かう。
でも、果たしてほんとうにそうなんだっけ?と思います。
自分の感情が純粋無垢で、キレイで美しいと思えば思うほど、自分のそんな感情を、そのまま相手にもぶつけても良いと思ってしまいがちなのが、人間。
そうやって、カンタンに勇者モードに入ってしまう。
でも、本当はそうじゃないんだ、むしろそんなときほど、自分の感情は完全に二の次にして、相手の感情にもう一度丁寧に寄り添いなおそうとすることが大事なんじゃないか。
つまり、「自分の気持はこんなにも清く尊いものだからこそ、私は神に愛されて当然」という人間の傲慢さこそが、人類のいちばんの落とし穴な気がしています。
むしろ、邪悪な感情のほうが本人にも「うしろめたさ」がある分、まだまともだなと思う時さえある。
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面倒なことを、全部外注したら、うまくいく。もし、そんな幻想が本当だったら、とっくの昔に貴族たちがそれを実現しているはずなんですよね。
でも貴族ほど、いがみ合うのが人類の歴史なわけですから。
そして最後には民衆に対して「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない」と、悪意なく無邪気に言ってしまえるのが、貴族という存在。
AIが、相手への気配りを全部自分のかわりに行ってくれて、衝突を未然に防いでくれるなら、世界全体が貴族化していくのは必然の流れです。
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だからこそ僕は、AIが出てきたから、もう人間側が持ち合わせなくていいと言いたくなるようなものほど、実は「共同体を築くために本来必要なもの」だったんだと強く思う。
それは以前もご紹介した、内田樹さんの言うプライバシーの尊重の話や、中村天風の言う悪人の自覚なんかにも、非常に近い感覚です。
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とはいえ、AIという画期的すぎるテクノロジーが出てきてしまったことで、人間社会からは、今後ドンドンそれらがなくなっていくのも必定。
だからこそ、それをしっかりと残していきたいなと僕なんかは思うのです。
わざと意識的に残していきたい。
たとえば落語って、ある意味で江戸の町人文化を言祝ぐために、口伝で残されてきたものでもある。銭湯の譲り合い文化なんかも、まさにそう。
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あと、これは完全に余談ですが、最近『「男はつらいよ」を旅する』という本を読んでいて、山田洋次監督が残そうとした「日本全国の風景」もまったく同じだったんだろうなあと。
高度経済成長を通して、失われていくことがもはや自明で、だからこそ映像として日本の田舎の風景を残すしかなかった。
そして、そうやって山田洋次監督が残してくれた作品があるからこそ、僕らは現代からその映像を観ながら思わされるわけです。
本当に大事なものは、むしろこうやって「もういらない」って言いながら失ってしまったものの側にあったのかもしれない、と。
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落語も映画も、そして小説なんかも、そうやって時代を切り取って残してくれる。
だから僕らは気づくことができる、そんな構造にあるなと思います。
小説家・朝井リョウさんが言う「時代の空気を瓶詰めにしている感覚」という話も、きっとそういうこと。
でも、僕はたとえ小さくても、それが生きたまま残っていることに価値があると思っていて。
現代に残る神社の意味も、遺跡ではなく、生きた空間として残っていることに、価値があるのと同様に。
また、それがこれからは、ある意味で「伝統工芸」みたいになっていくのかもしれない。
人間同士が生きるための知恵を、形として守り続ける、という意味において、です。
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そして、最後に強調しておきたいのですが、僕はそのためにこそ、AIを最大限活用していきたいなと思っています。
ほんとうに大事なものを残すための手段として、テクノロジーをそこに融合させていきたい。
持ち寄るべきは圧倒的に優れた正論ではなく、譲り合い精神であり、その地味で面倒な感覚をAIに外注せずに、自分たちの手元にしっかりと残しておくこと。
そうやってお互いに譲り合えたときにこそ、日本人は無上の喜びを感じるわけですから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日の話が何かしらの参考になっていたら幸いです。
