ここ最近、「慰霊と鎮魂」の重要性みたいな話は、何度もこのブログを書いてきました。


僕が旅をする中で、どこか新しい地域を訪れた瞬間、「慰霊」的な感覚を強く抱くエリアと、そうではないエリアが明確にわかれます。

これがずっと不思議な感覚でした。

僕は、霊感なんて一切持ち合わせていないので、それはスピリチュアル的な感覚というよりも、もっともっと合理的で歴史的なものだと思っています。

そして、最近漠然とわかってきたことは、具体的には「風土的な幸福感」が破壊された形跡があるかどうかなんだと感じました。

今日はそんなお話を少しだけ。

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この点、最近オーディオブックで聴いている広井良典さんが書かれた『無と意識の人類史―私たちはどこへ向かうのか』という本があるのですが、ここで和辻哲郎の「風土の思想」を引用しながら非常に興味深いお話が語られていました。

少し孫引きの様になってしまいますが、以下で少し引用してみたいと思います。

話題を多少広げることになるが、興味深い内容なのでもう少し見てみよう。和辻は『風土』の中でヘルダーの風土論を時代画期的なものとして評価しているが、たとえば次のような印象的な一節がある。     
ヘルデル(引用者注:ヘルダーのこと)は、全世界を荒らし回っているヨーロッパ人に警告する。ヨーロッパ人の「幸福」の観念をもって他の国土の住民の幸福を量ってはならない。ヨーロッパ人は幸福という点において決してもっとも進歩しているもの、あるいは模範となるべきものではない。ただヨーロッパ特有の一つの類型を示しているに過ぎないのである。世界の各地方には、人道の見地からして決してヨーロッパに劣らない幸福が、それぞれの土地の姿に応じて存している。 すなわち幸福は風土的なのである(強調引用者。和辻[1979] )
ある意味でこれは、近年活発な「幸福研究」──経済の規模あるいは GDP といった指標のみで人間の「幸福」は測れるものではなく、それにはもっと多様な側面が含まれると考えるアプローチ──ともつながると同時に、前章で述べた「地球倫理」での「多様性」の議論にも連なるような現代的な意味をもった指摘だろう。


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勢いのある支配勢力が、エネルギーに満ち溢れていて、莫大な権力があるうちは、それこそイケイケドンドンで、無理やり押し付けられた「幸福感」のようなものは、まったく顕在化しません。

でも、それが次第に力を失っていて、包括できる範囲も狭くなるなかで「お金にならない」と先方が見切りをつけて、アップデートすることを放棄すると、見事に顕在化してくる問題が間違いなくあるんだろうなあと思います。

なぜなら、そうすると一気にそのエリアが廃墟化していくからです。

そして、その廃墟感にきっと僕は「慰霊的な何か」を感じるんだと思います。

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これは喩えるなら、iOSのアップデートの対象から外れたiPhoneの古いモデルが、途端に文鎮化してしまい、虚しく感じてしまうことにとても良く似ている。

発売当初はあんなにもキラキラとして輝いていたのに、OSがアップデートされる対象から外れてしまうと、一気に使いものにならなくなって、それを所有している人間にはもうどうしようもなくなってしまう。

しかも、だれもその弔い方を考えずに、とりあえず勢いに任せてつくってしまった。

それはちょうど「廃炉が前提とされていない原発」みたいなものです。

きっと、これと似たような気運を新海誠監督も感じられて『すずめの戸締まり』という映画をつくったのだと想像しています。

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今、日本の多くの過疎地域が、日本政府によって置き去りにされた感じになってきていると思います。

スマートシティやコンパクトシティという号令に合わせて都市部に人口が集められて、あとはその空き地にことごとく金になるだけのソーラーパネルを並べている。

これが不要になったときに、誰が一体どうやって捨てるんだろう?と思わされてしまうほどです。

でもきっと、そんなことは誰も考えていない。自分が死んだ後に、誰かが対応してくれると完全に信じ切っていると思います。

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逆の方向から語ると、僕が奈良や島根、鳥取あたりがなんだか好きな理由もここにあるんですよね。

あのあたりのエリアは唯一、日本の中で「止まった時計」になろうとしている。

あえてそういったものから一定の距離を置いてきたという感覚が、とてもよく伝わってきます。

早いタイミングから、大和朝廷に置き去りにされてきたから、なんだか意図的に遅れてきた意志のようなものがそこには感じられる。

もちろん、日本という国土の中にある限り、避けては通れない部分もあるのですが、それでも、地域の中での「風土的な循環」のほうにもしっかりと目を向けている感じがします。

あと、世界に目を向けたときに、2013年頃に訪れたミャンマーなんかにも、それと非常に近い感覚を抱きました。

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つまり、僕にとっての「慰霊」的感覚というのは、その土地に本来存在していた「風土的な幸福感」が、ことごとく破壊されてしまった形跡を感じ取ったときに抱く感覚なのだと理解しました。

画一化されてしまっていることを感じとって、そこに本来あったものがないと感じるときに、自らの内側から立ち現れてくる「虚しさ」や「寂しさ」みたいなものなのだと感じます。

本来、その土地の「風土」と、その土地に暮らす「人々」というのは確かにしっかりとつながっていたはずなのです。

それは、その土地に暮らしてきた民族が何百年、何千年とかけて、その土地特有の「文化」として育んできたものによって、です。

各地域の風土に合わせて生み出されたそれぞれの全く異なる幸福感を、それぞれが持ち合わせていたはずだった。

もちろん、その風土から導かれる文化に合わせた家族形態だって全く異なっていたのだと思います。当然ですよね、風土に合わせた共同体やコミュニティの最適な在り方も異なるわけですから。

それは、歴史学者や人類学者でもあるエマニュエル・トッドがいつも指摘しているとおりです。

だから、「同性婚」のようなものであっても、両者の当事者間だけで合意が成立するアングロサクソン系の家族観とはたとえ相性が良かったとしても、そうじゃない地域だってたくさんあるのだから「先進的な文明」と一括りにして、世界各国に無理やり押し付けていいものじゃないのだ、と。

もしどうしても押し付けたいのであれば、その土地の風土から学び直して、文化的な背景もすべて理解した人間のみが、かろうじてその土地の人間と共に対話をして、一緒に考えていくことができるような問いであるはずなのです。

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にもかかわらず、無条件にソレを捨て去ることだけを強要されて、「いや、こっちのほうが絶対に幸福だから!」という圧倒的に押し付けがましい論理によって、無理やりハンバーガーとコカ・コーラを両手に持たされて、3Sのようなものを与えられて薬漬けされてしまったような情景、それに感じてしまう「寂しさ」なのだと思います。

もともとあった美しい方言を、無理やり標準語に矯正されたエリアなんかは非常にわかりやすいかと思います。

この弔いを、これから一体誰が行うのだろうか。

そんなふうに感じさせられる地域が、いま日本各地に本当にたくさんある。

「もうOSのアップデートには対応しません。あとは各自でご自由にどうぞ」と。

そもそも、分解や改造を前提とされていないiPhone的なものだけを与えられてきたような地域で、ソレは放置するのはどう考えてもおかしい。

「風土的な幸福感」を、あまりにも軽視しすぎた態度だと言わざるを得ません。

その土地にもともと存在していた風土的な幸福感が完全に失われて、その記憶さえも復興困難になるまえに、再度これらが見直されるようになって欲しいと心から強く願わずにはいられない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。