最近発売されたばかりの朝井リョウさんの新作長編小説『イン・ザ・メガチャーチ』。
現代の「推し活」ブームを「宗教」に見立てた群像劇です。
あらすじを読んだ瞬間 に「そうだよね、それをいま描くよね」と思わされるような内容で、発売日初日に購入し、一気に読み終えてしまいました。
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さて冒頭から少し余談なのですが、僕は、朝井リョウという小説家と同世代で良かったなと思います。
『桐島、部活やめるってよ』も『何者』も『正欲』も、今読んでもたぶんきっとそこまでおもしろくない。「えっ、当然でしょ」と思うか「何の話?」となるはずです。
彼の作品は同時代に読むからこそ「そう、現代の世の中の歪さはまさにソレだよね」と思わせてくれる何かがある。
本当に意地悪な視座を持ち合わせながら、現代という時代を丁寧に観察し、それを愉快犯的に描くひとだなと思う。(褒めてます)
ただし、今作は、ちょっと度を超えているなとも思いました。
「推し活」という形で、人々が自己洗脳されていく様子、その”宗教”にのめり込んでくる様子が、もうこれでもかっ!というぐらいに詳細に描かれてあり、本当にえげつないなと、少し引いてしまうレベルです。
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最初は結構ワクワクしながら読み進めていたのだけれど、途中から「さすがにこれは書きすぎなんじゃないか…」と、読んでいるこっちが不安になってくるほどでした。
近年のアイドル系のサバイバル番組に熱狂していた人たちが、この小説を読んでしまったらきっと息ができなくなってしまう。
あと、実際に現代において、このような「推し活ビジネス」を仕掛けている人たちからすれば「余計なことをバラさないでくれ」という意味で、本当に刺されてしまうんじゃないか。
それぐらい今回の作品は、非常に今日性があり、なおかつその狂気も凄まじいものでした。それゆえに、本当に読んで良かったなあと思います。
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で、今日話題にしたいのは、この小説の中の冒頭部分に出てきた、「推し」という言葉自体にまつわるお話です。
20代の女子大生の登場人物、同世代空気に馴染めない聡明な女の子に、朝井リョウさんは以下のような内心の言葉を語らせています。
ものすごく本質を捉えている言葉だなと思ったので、少し引用してみたいと思います。
そもそも、推し、という言葉があまり好きじゃない。というか、お気に入りの先生や先輩のことを突然”推し”と呼び始めた高校の同級生のことを思い出して、心がムズムズしてくる。
(中略)
その子たちはあるときから急に、「私◯◯先輩のこと推してるんですよー」とか、「推し活の一環でーす」などと言いながら、特定の男の人にお菓子を配ったりしていた。好き、から、推し、に表現を変えただけなのに、しかも自分発信の表現でもなくただ流行語を使用しているだけなのに、対象も含めた空間全体を掌握しているとでも言わんばかりの言動が見ていてどうにも恥ずかしかった
これは本当にそうだなと思いますし、共感しかない。
こういう話を、小説の中で、しかも現代の大学生の女の子に憑依してバッサリと書いてしまう朝井リョウさんは、本当に最低でいじわる極まりないなと思います。(繰り返しますが、めちゃくちゃ褒めています)
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で、特に刺さるのは「好き、から、推し、に表現を変えただけなのに」という部分です。
現代の「推し」という言葉の興味深さは、ここにもあるなと思っていて。
具体的には「好き」という言葉を「推し」に言い換えた途端、それは相手の意志や気持ちを無関係に、勝手に相手に向けても許される「好意」に変わってしまうところ。
好意も抱いていない相手から「好きなんです」と言われると「やめてくれよ、気持ち悪い」となり、相手の意思を優先して確認しなければいけない場合であったとしても、「推しなんです」と言い換えられた瞬間「やめてくれよ」と言えなくなる。
つまり、ファンからその対象に対して、逆転現象というか、それまでとは真逆の権力構造が発生することが、すごくおもしろい現象だなと思います。
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これは、「言語論的転回」みたいな話にとてもよく似ている。
先に言葉ありきで、僕らは世界を認識しているというあの話です。
「好き」から「推し」という言葉に言い換えた途端に起きる、権力構造の変化。もしかしたら、現代人がいちばん求めていた感覚は、コレなのかもしれないと思ったんですよね。
今日の本題もこのあたりで、以下順を追って説明したいと思います。
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この点、以前読んだ石原千秋さんの『謎とき 村上春樹』という本の中に、言語論的転回に関して非常にわかりやすい具体例が書かれてあったので、ここで少しご紹介してみたい。
石原さんは、「妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言葉で汚染されている」と書いていました。
つまり、言葉で意味づけられてしまっていて、言葉が意味するようにしか世界は存在しないのだ、と。
その意味を解説するうえでの具体例が非常にわかりやすかったので、以下で本書から引用してみたいと思います。
僕がいつも使う具体例を挙げよう。日本の医療現場では「抑制」という医学用語がよく使われていた。簡単に言えば、徘徊したり暴れたりする患者をベッドに縛りつけることだ。
ところが、これは非人間的だと考えた医師がいて、それまで「抑制」と書かれていた看護日誌に「縛った」と書かせた。すると、看護師に大変な抵抗が出てきた。「抑制」と書くと医療行為の一つだと思えるが、「縛った」と書くと人間の自由を奪ったとしか思えなくなったのだ。その後その病院では、ベッドに患者を縛りつける行為が激減したと言う。これは、一つの行為が別々の呼び方をされたということではない。「抑制」という行為と、「縛った」という行為が別々にあるのだ。言語論的転回の立場から見ると、そうなる。
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これはとてもよくわかる感覚だと思います。そして、「推し」と「好き」も、似たような構造にあると僕は思う。
で、ここまで考えてきて「あれ、これ何か他にも非常によく似ているな」と思いました。この構造変化にとても強い既視感がある。
それは、成人を過ぎた大人同士が他者に向かってうやうやしく「先生」と呼ぶことへの違和感です。
以前、ブログにも書いたことがあります。
自分からへりくだることで、逆転した支配構造をそこに生み出す。「推し」はうやうやしく相手に対して「先生」って言っちゃう感じに似ているんだ、と。
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で、そういえば最近、わざとらしく「先生、先生」って呼ぶひとがいなくなったなと思います。それはきっと、あまりに昭和っぽくてダサくなったからだと思う。
その一方で、「推し」が急浮上してきた。
そして、とても厄介なことは「先生」のときもそうだったけれど、それは明らかに下手に出てきているから、一概にはNOと言えないこと。
それに対して何かしらの違和感や嫌悪感を示そうとすると、つまり「その『先生』って呼び方、やめてくれませんか?」とやんわり言うと、「こっちがよかれと思って言ってやってんのに、こちらの好意を踏みにじるのか、嫌なやつだ」となる。
そうなることが目に見えているから、空気を読む日本人は余計に何も言えなくなる。
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非常に日本人らしい、逆転した権力構造であり、支配構造の生み出し方だなあと思います。
で、「先生」や「推し」と周囲から言われる側も、いろいろと考えた結果、相手が勝手に言っているだけだし、ネガティブな悪評を広めているわけではなく、むしろ好意を勝手に自分のSNSで叫んでいるだけだから放置しておくか、仕事にも好都合だし(金にもなるし)となってしまう。
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その結果として「推し」という表現自体が無限増殖した時代が、まさに現代。
で、これは「相手よりも下手に出ることによって安住したい」つまり甘えたい日本人と、でもそこで逆転した権力構造もつくりたい日本人とぴったり合致したわけです。
まさに、甘えの構造そのもの。
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でも、やっぱりそれは我執でもある。福田恆存のあの話を、ここでも思い出します。
『福田恆存の言葉』という本から、再び少し引用してみます。
自分の信仰を相手に押し付ける。これは神様の例を取るとちょっと分かりにくいかもしれないけれど、自分に効いた薬を他人にもどうしても飲ませたくてしょうがないというようなのもいますからね。それは、何かやっぱり自分の自己主張、自我意識というか、我執みたいなもので我執と信仰とをどこで分けるのかというのは実に難しいです。たいていの場合には私は我執じゃないかなと思います。
他者から押し付けられることに対して、非常に敏感で嫌悪感を示すくせに、自分が得意なことはカンタンに人に対して押し付けようとしてしまう、と。
このような我執の働きかけをやめられないジレンマは、一体どうやったら解決することができるんだろうかと、いつも思います。
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つまり、人間は根本的に布教したい生き物で、アイドルなど「推し」に対して勝手に投影した「自己ロマン」を「推し」というメディア(媒介)を通して押し付けたい。
自分の話だと聞いてもらえないけれど、推しの話なら少なくとも、同じ推しが好きな人間同士のコミュニティには届くし、聴いてもらえるから。
具体的には、SNS上で、いいねやRTしてもらえる。ファン同士で連帯すれば、ハッシュタグのトレンドだって作り出すことができる。
自分の話をただ発信していたときは完全に無視されていたのに、「推し」を用いたときは、SNS上での全能感も得られる。
きっと、ここにものすごく中毒性がある。
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また「推し」という感情を理解できない人間からしてみれば、それっていうのは「虎の威を借る狐」以上に姑息で理解不能な手段にも見える。
小説『正欲』の話とも、全く一緒です。
つまり、「推し」というのは、現代の「制欲」であり「正欲」であり「性欲」なんだと思います。
表面的にはへりくだることとしての制欲であり、でもその背後にあるのは、他者を支配したいという正欲があり、しかもそのすべてを含むむき出しの欲望としての、性欲がある。
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最後にまとめると、恐ろしいほどに、素晴らしい現代を映し出した小説だなと思いました。
そしてこの本は「チャーチマーケティング」という現代で主流になりつつあるマーケティングの教科書でもあるし、そのチャーチマーケティングの欺瞞を見事に暴いた作品でもある。
「日本経済新聞出版」から出版されている小説であることも、なんだかよく分かるなと。それぐらいアイロニーが効いている。ぜひ実際に手にとってみて欲しい一冊です。
この本が出版されてしまった以降は、世の中にはもう2種類の人間しかいなくなってしまった。
この本を読んで「推し活」をしている人間か、この本を読まないまま「推し活」をしている人間か。
推し活(物語と、コミュニティ)から逃れられる人間は、ひとりもいないわけですから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。