F太さんがスクショしてまでご紹介していたこの一連のお話、すごくよく分かるなあと思います。
本当にスクショしたくなるぐらいに、めちゃくちゃいいお話。
現代の「報われる」感覚、そのための「優しさ」ってこういうところにあるよなと思う。
そして実際に、現代の作家やクリエイターがこの状況を聞いたら、きっと心の底から喜ぶはず。
まさに三方よしで、全員がハッピー。だからこういう世界を広げていこう、みたいな時代の気運もすごくよくわかるんです。
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でも一方で、ふと思いました。
じゃあ昔の職人さんたちは、なぜこういう状態を喜ばなかったのか?
これは完全に僕の勝手な憶測ですが、一昔前の職人さんであれば、このような感想が自分の元に届いた時、むしろ自己の半人前を嘆くはず。
つまり、間接照明をつくっている職人さんであれば、いちばん言われたくない言葉でもあるはずです。
では、それは一体なぜなのか。
今日はこの問いについて、なるべく丁寧にこのブログの中で考えてみたいなと思います。
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まず、このような「注目すること」それが「優しさ」だと思われるようになったその背景には、現代の「推し活」文化の影響は、めちゃくちゃ大きいと思います。
特にK-POPから広まった「ずっとその人だけを追い続けるファンが撮影した映像」みたいなものは、かなり大きい気がする。
たとえ脇を固めるメンバーであっても、あの動画における圧倒的な主役感。
そこから、誰かが見てくれていること、それが現代の愛の表現でもあり、それを渡すことが相手の「幸福感」につながっているという前提になってしまっている。(実際そうやって撮られているアイドルが本当に嬉しいかどうかは一旦横に置いておきます)
「ファンの愛はここにある」ということが前提となっている。
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K-POPの「アーミー」と呼ばれるような人々、自身のSNSでの布教活動をする前までは、このような「注目」こそが愛であり、「注目されることが喜ばしいこと」であるという前提は、そこまで強くなかったと思います。
無限に溢れかえる対象の中から自分だけの推しをみつける「推し活」が全盛期だからこそ、そうやって表現、成果物などのアウトプットに注目する(してあげる)ことが一番の喜びであると勘違いされるようになった要因でもあると思うんですよね。
つまり、現代では、特定の人に注目し「あなたこそが(私の)主役だ」と承認することが「優しさ」だという暗黙の前提が、時代の空気のように存在している。
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でも、このロジックでいくと当然「誰からも注目されないから、私は不幸である」という帰結にもつながるわけです。
誰からも注目されていない私は、相応の結果を出せていない、そんな自分はダメなんじゃないか、自分には価値がないという形において、ドンドンとネガティブスパイラルに陥っていく。
誰かの注目を集めることこそが、価値(幸福)とされる現代において、「自分は注目されていない」ということはそのままイコール「価値がないのではないか」という不安に多くの人が苛まれてしまうわけですよね。
そして、自分もどうにかこうにか他者から注目されるために、自己主張をはじめる。
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その決定的な帰結として、間接照明であっても、自己主張をし始めるわけです。
自らで、「間接の照明」だって言っているのに、です。
そうやって、自己の存在を全面に出してくる。
そして最終的には、アートに見間違われるぐらいまで、見る人が見れば存在感あるものになっていく。
F太さんが紹介していたツイート主が見たものが、実際にそうだったというわけではなく、そういう現象って現代ではいたるところで見かけますよね、という一般論です。
自分が主役でもない場なのに、主役のように爪痕を残そうとする。
ハレの日に参加した自分を、自分のSNSにシェアしたい気持ちが先立ちすぎて、友人の結婚式に白い衣装で参加してしまうSNS大好きな女の子のように、です。
きっと、そのような場おいて、ほんとうの「真善美」つまり真の「調和」は決して生まれてこない。
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もちろん、ここまで読んできて「確かに調和が乱されていれば害悪だけれど、ガチャガチャしてなければいい。そこに『美』があって純粋に見惚れた人がいるのなら、それはそれでいいじゃないか」と思う人もいるかと思います。
実際にその通りだと思うし、基本的には繰り返しますが、これは優しい素晴らしい世界だと思うのです。
でも、それを突き詰めると、結局また椅子取りゲームが始まる。
4年に一度のオリンピックの話と全く一緒です。その金銀銅のメダルの椅子に座れるひとは、絶対的に数が限られている。
同様に、人間のアテンションも世界全体で、60億の「まなざし」しか存在しない。多くても有限であって、オリンピックのメダルと構造的には一緒。
しかも、最初は1人のまなざしで満足していたものが、10人、100人、そして1万人と、その数は無限に増えていく。人間の欲望、その不満足には終わりがない。
やっぱりそう考えると、物理的にも人間の無限の欲望的にも椅子取りゲームにならざるを得ないと思います。
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それよりも僕は、全員が全員の「道」をつくっていく感覚、その腹落ち感のほうが大事だと思うんですよね。
そして、昔の人はそれがよくよくわかっていた。
だから、自分が注目されることは「半人前」だと思っていたんでしょうね。
これは以前、おのじさんと配信した「本当の意味で救われる」とはどういうことか、という配信の話にも見事につながるなと思います。
そして「ほんとうの幸福」や「ほんとうの幸い」もきっと、主役になっちゃいけないということなんだと思います。
つまり、固有名において「あなたのおかげで〜」とか「あなたがいてくれたからこそ〜」と喜ばれているうちは、本当の「仕事」じゃない。
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名が消え、作用だけが残る地点。そこに「本当の仕事」が顔を出すんだと思います。
河合隼雄さんがよく書かれているように「カウンセラーがクライアントの役に立っているうちは、半人前。おかげさまで、と言われたらカウンセリングの失敗だ」というあの話にも見事につながるなと思います。
世間から評価されない、誰も注目してくれない。でもそこにこそ、本当の救いがある。
「報われる」と「救われる」は似て非なるものであるはずです。報われないかもしれないけれど、でもそこに本当の救いがある。
社会から何を言われようと、ネガティブなことをネガティブなまま、世界をありのままに受け入れられる、それが本当に救われている状態だと僕は思います。
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また先日、批評家・若松英輔さんのVoicyを聴いていたら「僕は、全員が菩薩行するために、この世にもう一度生まれてきたのだと思う」というお話をされていて、なんだかその言葉に、とてもハッとしてしまいました。
うまくいえないけれど「だったら、菩薩行しなきゃ」と思ったんですよね。
菩薩行のなかで、人の役立っていることに喜んでいるうちは、やっぱり我執であり煩悩。
実際に喜ばれて感謝されて、当時者全員がハッピーであったとしても、それはきっと菩薩行からはいちばん縁遠い状態です。
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でも、でもなんですが、ここでさらにひっくり返して、もう伝わるかどうかギリギリの死ぬほどわかりにくいポイントなんですが、その「我執」こそが大事なものであって、大切なことに気づかさてくれるポイントでもあるわけです。
なぜなら、僕らは、その我執や煩悩がないと本質的にはわからないから。
誰かの役に立ちたいとか、感謝されたいとか、貢献感を得たい、とかって感じられないと、そのような行動にさえ出られない。
だとすれば、煩悩即菩提、なんですよね。
つまり、その「役に立ちたい」という煩悩こそが、より深い境地へ至るための入り口であり、きっかけ(菩提)なんだ、と。
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煩悩を持たないと気づけないとすれば、やっぱりそれは、その時点ですでに悟りの道に通じている。というか、その煩悩を抱いた時点で、すでに菩提へと至っている状態と言える。
そうやって気づけたらなら、あとは淡々と目の前のことに取り組むだけだと思うのです。
言い換えると、やりがいや感謝の言葉で得られる腹の底から湧き上がってくる喜び、その貢献感は最初の1回だけでいい。
その喜びが、ある意味で強引に私を「こっちだぞ!本当に大事なものは!」と引っ張って呼んでくれたわけですから。呼ぶための力こそが、煩悩です。
正しい方向に向き直ったなら、あとは淡々と没頭しなきゃ、と思います。
美の本当の意味での「調和」的概念を目指して、です。
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で、ここまで考えて「そうか!それが『姫が犯した罪と罰』なんだ」と思いました。
あちら側が月だとして、姫は地球に降ろされている。そして、煩悩という罰を与えられている。
それが姫が犯した罪と罰。
高畑勲、本当に凄まじいなと思いました。
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話がかなり分かりづらい方向に流れてしまったから、修正します。
じゃあ、今日の話を受けて、自分はどう生きたいと願うのか。
その答えは決して派手な答えではありません。
日々の感謝を忘れずに、気づいたら淡々と手を動かして、優れた道具のように世界に馴染むことを目標とする。
そして役に立つとか、おかげさまで、と言われない中でも、自己の幸福感を完結できること。むしろその言葉を言われてしまったら、まだまだ道半ばであると自己を反省する契機にすること。
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でも、それぞれがそのような境地に到達するためには、逆説的だけれども、周囲からの日々の感謝、その声がけが何よりも大切であって。
十牛図の中にでてくる、一番最後の絵のように、その境地に至った者は、今まさに「役に立ちたい」「他者から注目されたい」と願ってやまない若者たちに対して、最大限の敬意と配慮と親切心を込めて「ありがとう、助かるよ」と声がけをしていく。
そして、こっちだよと、方角だけを指し示したら、あとは一切何もしない。
役に立っているうちは、名指しで感謝の言葉をかけられているうちは、半人前であることを、本人自身に自発的に気づいてもらうこと。
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これは、決して負け惜しみでも何でもなく、本当にそうすることで、全員が本当の意味で自分自身の「道」を歩み、救われる世界がやってくると僕は思っています。
Wasei Salonも、そのための空間を淡々とつくっていきたいなあと思います。
今日のお話に関連し、改めて以下のふたつの記事を合わせて読んでみてもらえると本当に嬉しいです。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとってもこのブログの参考となっていたら幸いです。

2025/09/04 20:37