僕は、ディズニーランドが大好きです。
特に、10代後半にはドハマリしていて、3ヶ月に1回ぐらいのペースでディズニーリゾートを訪れていたように思います。
現地に訪れるたびに、「ディズニーランドのその魅力とは何なのか」をいつも考えてきました。
参照:生きるとは、常に「取材」し続けること。
そんな中、最近よく思うのはディズニーの居心地の良さは、きっと「最初から善悪がはっきりしているところ」なのだろうなあと。
そして、その空間内における道徳について、誰もが寸分違わず理解できてしまう。それが、ものすごく居心地を良く感じさせてくれるのですよね。
なぜなら、自分の頭で考えなくて済むようになるからです。今日はそんな話を少しだけ。
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このことに気づかさてくれたのは、ヤマザキマリさんの『歩きながら考える 』という本です。
早速、ディズニー作品に言及している部分から少し引用してみます。
ディズニー作品に感じるのは、ピューリタン(清教徒) 的な道徳意識の強さですね。何が善で何が悪で、さらには何が楽しいかといったことが、ディズニー作品のなかではすべて決められた上で提供されているように思います。
アメリカは歴史の浅い移民国家です。異なる宗教、異なる歴史。あらゆる背景をもった人々をまとめるには、拘束力の強い倫理観が切実に求められるところだったと思います。そこで為政者たちは、キリスト教的倫理に根付いたアプローチによってアメリカ式政治をつくり、国を束ねていった。ディズニーがそんな背景のなかで生まれたのだと思うと、その特徴にも納得がいきます。
「何が楽しいかといったことが、ディズニー作品のなかではすべて決められた上で提供されている」という部分は、本当に同意です。
言い換えると、ディズニー作品及びディズニーランドという場所には、アポリア(解決のつかない難問のこと)が一切ない。
だから、安心して子どもをディズニーランドに連れて行けるし、ディズニー作品を延々と見せ続けることもできる。
そこで獲得される道徳観というのは、ブレようがないからです。子どもが、自ら考えられる余地はありません。ゆえに「誤った道徳観」を獲得することはあり得ないのです。
一方で、青年誌に掲載されているようなマンガやアニメは、その道徳観が非常に曖昧なものが多いです。
悪役にも同情する余地があったり、悪には悪の「正義」があったりする。そうすると、悪のほうに肩入れしてしまう可能性だってあるわけですよね。映画『ジョーカー』なんかはとてもわかりやすい例だと思います。
そうすると、そもそも世の中には最初から明確に決まりきった「善悪」など存在しないということにも気づいてしまいかねません。
それに気付くと、ひとは自分の頭で考えなくてはいけなくなります。それがあまりにも面倒くさいと感じるひとは、本当に多い。
だからこそ世界にはそれを代行してくれる「宗教」が存在しているのです。
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さて、もう少しだけヤマザキマリさんの同書から、ディズニー作品に言及している部分を引用してみます。
表現に込められる思想や視点に制限をかけ、人々の視野を狭めたほうが、人間という群れを統括しやすくなります。その意味では、ディズニーアニメが表現する一途な倫理観は、人間的感動が目一杯演出されていると同時に、非常に侵略的なものとして私には感じられるのです。どの作品をとっても国境を超えて、全世界の子どもたちが感動するようにできています。荒唐無稽なギリシャ神話ですら、キリスト教的なハッピーエンドで締め括られるようにつくり替えられていますが、それを見ることで世の人々は無意識のうちにディズニー的倫理で物事を見るようになっていくのです。
こうやって考えてくると、ディズニー作品には美しいほどに宗教の要素がすべて詰まっていることに気づいてきます。(教祖も教典も教会も、すべて揃っている)
無宗教を自称する日本人にとって、これほどまでに完璧な(染まりやすい)宗教施設もなかなかないでしょう。
実際、年パスまで購入して、まるで教会に訪れるかのように毎週末訪れているひともいます。
自分の頭で考える必要がないことの心地よさを体感するには、本当にうってつけの施設です。
そのあまりの居心地の良さに自然と「世界全体がこうなればいいのに…」と願い始めてくるひともいることでしょう。(実際、10代のころの僕もそう思っていました)
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この点、ディズニーランドが日本に進出する際に、伊勢神宮を研究し尽くしたという話はあまりに有名な話です。
なぜ浅草や渋谷など商業エリアではなく伊勢神宮だったのか、今ならとっても納得できる。
きっと最初から「宗教施設」としての自覚があったということなのでしょう。
商業活動ではなく、布教活動の一環として(植民地政策の一環として)日本に進出しようという自覚があったのだと思います。
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さて、このことをすべて理解したうえで、僕らが取れる選択肢は2つあります。
ひとつは、現地を徹底的に取材したうえで、その道徳観を自らハックしてしまうこと。
そうすると、ディズニー的な倫理観のもと、上手に暮らしていくことができます。何不自由ない暮らしが、そこには待っている。
でもやっぱり、僕にはそのハックは無理だなと感じました。「本当に…?」という疑いの目を向けたくなってしまった。
だからもう一つの選択肢は、ディズニーランド(宗教)の外の世界に目を向けてみること。実際の現実世界には、それこそ「アポリア」だらけなのですから。
参照:自我はいつから芽生えたのか、人生をハックするのをやめた日。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日の話が何かしらの参考になったら幸いです。
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