「真に道徳的な振る舞いとは何か?」

この問いについて、じっくりと考えたことがある人は、あまり多くはないかと思います。

もちろん、僕もそんな人間のひとりです。

この点、『街場の天皇論』という本の中で、内田樹さんが書かれていた「道徳」の定義が非常に興味深かったので、以下で少しご紹介してみます。

ー引用開始ー

勘違いしている人が多いのですが、道徳というのは別に「こういうふうにふるまうことが道徳的です」というリストがあって、そのリストに従って暮らすことではありません。そう考えている人がほとんどですけれど、違います。

道徳というのは、何十年、何百年という長い時間のスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという 思考習慣 のことです。

ー引用終了ー

これはとっても納得できる内容です。

逆に捉えると、「今この瞬間において、私が最大限貪るためにはどうすればいいか」という思考習慣を繰り返していれば、すぐに道徳的ではない振る舞い方も見えてくる。

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ではなぜ、私たちはこのような長い時間軸における思考習慣を疎かにするようになってしまったのでしょうか。

まずは、自分よりも息の長い枠組み(共同体)から切り離されてしまったことが、ひとつの大きな原因だと思っています。

それは、以前書いたような「タテの共同体」の喪失。


現代を生きる個人というのは、地域社会から切り離され、家系から切り離され、次第に会社からも切り離されはじめてしまっている。

というより「会社」という法人格が、そもそも人間よりも寿命が短いものへと成り下がってしまいました。

そんな中で、会社に属しながら「数百年単位で物事を考えろ」というのは、会社に対して利益相反行為になりかねない。株主がいる場合は、明らかな背信行為に当たります。

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また、インターネットを中心に「今、この瞬間さえおもしろければいいじゃないか!」という振る舞いが、賢い振る舞い方であるとされる傾向も強いです。

誰でも一夜でシンデレラになれる環境がドンドン整いつつあり、「決してこの波に乗り遅れるな」という風潮も間違いなく存在します。

いわゆるそんなインフルエンサー的な振る舞い方の中に、個人の人生以上の時間軸が含まれてくるわけがありません。

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このような社会変化のなかで、「なぜ自らが死んだ後のことを考える必要があるのか?なぜ自らが生まれる前のひとたちのことを考える必要があるのか?」という考え方が主流となってきても全くおかしくない。

実際に、社会の中で大きな結果を出しているような人たちでさえも、平気でそのようなことを口にしてしまう方々が存在しています。

そんな今の日本で、唯一この真に道徳な振る舞いの英才教育を受けているのが、天皇だということでしょう。

2000年以上の時間軸の中で、常に考え続けるように振る舞っているわけですからね。

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では、なぜ人間は真に道徳的に振る舞うべきなのでしょうか。

これはさまざまな理由があると思いますが、結局のところ、人間は何度も同じような輪廻を繰り返してしまっているからだと思います。

時間軸の捉え方の短さゆえに、何度も何度も同じミスを繰り返してしまっている。

「平家物語」や「方丈記」の世界観なんかが、まさにそれを物語っています。

時間軸を長く捉えないと、どれだけ周囲の科学やテクノロジーが進化していったとしても、結局また同じ誤ちを繰り返すことになるのでしょう。

思考の時間軸を伸ばし、そのタイムスパンでの思考習慣を身につけて初めて、それを乗り越えていける"可能性"が生まれてくる。

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家も国も会社も「タテの共同体」として機能しなくなった現代において、

自分よりも時間軸の長い帰属意識を持てる「タテの共同体」が何に置き換わっていくのかは、まだわかりません。

ただし、同じような時間軸で考える思考習慣を持っているもの同士が集まる空間、その結果として「道徳」の価値観が近い者同士が対話できる空間が、いま間違いなく求められ始めているのは確かだと思います。

このWasei Salonも、そんな現実社会の時間軸とは異なる時間軸で、対話できるような空間になっていったら嬉しいなと思っています。