Twitterで、バズっていたこちらの記事。

自分の月極駐車場に無断駐車されている場合の対応について「盗難の心配をしているふうに警察に連絡すると良い」という方法が賢いライフハックとして話題になる

ネット上では、基本的には称賛の嵐。

でも果たしてこれは本当にこれは”賢いライフハック”なのだろうか。ちゃんと丁寧に考えてみたい問いだなと思いました。

なので、今日はこのまとめ記事を受けて、僕が考えたことについて書いてみたいと思います。

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この点、現代はまさにこのような「偽善」ハックが主流である気がします。

言い方を変えれば、この件に限らず、「自分さえが良ければ、それでいい」そこで他人を都合よい形で「動かす」ことさえできれば、それで大満足というような。

さらに、そんなことをしても、世間からは称賛され、つまり白い目で見られずに済むことができれば、それが最高。

そうやって、他人を自分の都合の良い道具のように扱う「偽善ライフハック」が、持て囃される世の中だなあと思います。

でも、このような「やらない善より、やる偽善」的な思考がはびこることで世の中が、「正直な悪」に侵食する機会を与えてしまう。

それは、以前ブログにも書いたとおりです。


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また、こういう思考の構造が「賢いライフハック」としてシェアされていくこと、シェアすること自体が、賢いこととされていることを決して恥ずかしいと思わないようになった社会の変化も大きいのだろうなあと思います。

なんなら、こういう振る舞いこそがスマートでカッコいいこととして「有益なノウハウを発信している俺」として尊ばれることを期待する。

そして実際に聴衆からは拍手喝采で「賢い!令和の一休さん」とか言われてしまうところがものすごく現代だなと感じます。

でもそれは、「私の美」に到達するためのスマートな最短距離であることであっても、その結果として、「私たち美」には一生たどり着かない。

つまり、これもまさに「合成の誤謬」の問題だなと思うのです。

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で、このような類いの話の、真のむずかしいところは、とはいえ今その現状に置かれているひとの「緊急避難」として用いられるハック術としては、圧倒的に正しいということです。

つまり、正当防衛みたいな話になるわけですよね。

正当防衛が許される理由は、そこに明らかな「急迫不正の侵害」があるから。

その要件はいろいろとあるのですが、つまりは「誰がどう見ても、あなたは反撃しても仕方ない状況に置かれていたよね」と認められれば、正当防衛が認められる。

だから、たとえその正当防衛による反撃行為によって、襲ってきた相手を殺してしまったとしても、法的には許される。殺人罪にはとわれないわけです。

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でも、今回のような事例も含めて、ネット上で拡散されるライフハックは、今現在、急迫不正の侵害を受けいないひとたちに対しても、その正当防衛のような手段が伝わってしまう。

さらに、その思考回路、知恵の構造自体がインストールされて、悪知恵のように横展開されること自体が、問題だと僕は思うんですよね。

まさに『花咲か爺さん』の中に出てくる、悪い爺さんみたいな話です。

あの悪い爺さんは、そうやって他人の成功を見てハックしようとした結果、ことごとく失敗する。

あの話は「むかし話」特有の勧善懲悪、因果応報的な世界観を直接的にわかりやすく描いてくれているわけだけれども、現実の世界においては、短期的には成功してしまう場合のほうが多い。(あくまで短期的には、です)

だから本当は置かれている状況、その物語による、というのが本来の正しい解釈のはずで。

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最近、僕は連日のように東畑開人さんの本をご紹介してきたけれど、東畑さんのカウンセリングルームの中では、「不倫」さえも肯定される物語になる場合がある。

なんなら不倫こそが、肯定される物語だったりもする場面「も」ある。

でもやっぱりそれは、成るようになった縁起の結果として「死と再生」、「弔い」を行うためには一度肯定しなければならないフェーズも間違いなく存在するという非常に特殊な場面でもあるはずで。

つまり、急迫不正の侵害が、個人の身体ではなく「こころ」に迫っているような状況です。

いつも普遍的に認められる話では決してない。

仮に、社会全体や世間の中でも「不倫」を肯定してしまったら、当然合成の誤謬に陥ってしまって、社会契約がまったく成り立たなくなってしまう。

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つまり、真の問題は、個別事例の尊重や、現場のケアの文脈で正しいこと・役に立つことが、ライフハックとして広く一般的にもシェアされていく、この世界の伝播の仕方、その広がり方の問題なんだろうなと思います。

言い換えると、良かれと思って現場で生み出されるその場限りの賢い機転が、瞬く間に「ライフハック」や「賢い知恵」として、本当にその知見を今現在必要としていないひとたちにまで届いてしまって、当事者にとって都合の良い言い訳を与える手段となること。

つまり、急迫不正の侵害がない状態であっても、その手法によって触発された「悪知恵」的に用いられてしまう状況です。

結果、世界が『花咲か爺さん』の中に出てくる「悪い爺さん」ばかりになる。

あの悪い爺さんだって、花咲か爺さんの成功さえ知らなければ、決して悪い爺さんとしては振る舞わなかったはずなんですよね。

運悪く隣りに住んでいて、「花咲か爺さん」の棚ぼたを知ってしまったがゆえに、そこに縁起のように「欲」が生まれてきて、悪い爺さんはドンドン堕落していってしまったわけですから。

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そして、今日のような話から導かれる本当の帰結、こういうバズったまとめ記事を読むときに、僕らが本当の意味で獲得するべき視点、本当の意味で獲得するべき「ライフハック」は何かといえば、

世間がこういう”賢い偽善的なライフハック”に触発されて、相手のメリットのためだけに自分が使われる側にまわる危険性があるという事実。

つまり、目の前の相手の都合の良いように、私自身が搾取される対象にまわる可能性があると、常に警戒心を強めなくて行けないということです。

「令和の一休さん」を真似た「一休さんもどき」が大量にそのへんをウロウロしてしまう世の中である事実を理解しなければいけなくなる。

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そして、あたかも「自分はいい人です、他人の不利益を心配しています」という顔をして、近寄ってくるひとに対しては常に警戒しなければいけない。

特に、この記事に賛同していた人たちは、このような考え方をすでに内面化していることは間違いないわけだから。

賛同しているひとは、基本的には私にとっての要注意人物になっていく。

一見するとものすごく優しいひとであっても、そんな相手のことは意図して遠ざけなければならなくなる。

いつ何時、自分に対して、そういう行動を仕掛けてくるかわからないから、です。

その現実を理解しないと、常に搾取されるカモになる可能性があって、結局、お互いに疑心暗鬼の世界になり、本当の「惻隠の情」さえも届かなくなってしまうわけですよね。

これもまさに、世界が「偽善」に満たされてしまうからこそ起きることだと思います。

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しかも、その偽善はこのツイート主のように全然スマートなやり方では実現してくれないわけです。

もっとぎこちないし、もっと頼りない。

本当は、一度偽善的行為をやってしまったら、それこそ「死ぬまでやったれ、猿芝居」なんです。

偽善を徹底して継続し、墓場まで持っていき、「真の善」にしなければならない。

逆に言えば、その覚悟がない「偽善」的行為というのは決して無闇に行ってはいけない。

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冒頭にも書きましたが、もっとも最悪なことは、みんなが偽善的に振る舞うようになった結果として、その裏の裏をかいて、完全に開き直る「正直な悪」が登場し、それが一番票を集める結果となってしまうこと。

それがトランプ大統領が、アメリカに限らず、全世界に向けて盛大に仕掛けたことです。

なぜ、トランプのようなあからさまな「正直な悪」が見事に成功してしまうかと言えば、みんなが偽善的な立ち振舞に対して、疑心暗鬼になっているとき「これこそが本当だ!本物なんだ!」と思えるものを、社会が探し求めるようになっていたからなんだと思います。

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少々わかりにくい構造かもしれないですが、この点、最近読み終えた村田沙耶香さん『生命式』という短編集の『孵化』という物語が非常にわかりやすかった。

こちらも「界隈」に合わせすぎて、自我が見事に消失した女性の物語です。長編小説『世界99』のベースとなった物語でもあるそうです。

そして少しネタバレにはなってしまうけれど、そんな彼女は結婚式を間近に控える婚約者から、そのあらゆる界隈ごとの「分人」を見せた結果、恐れられてしまう。

「いったいどれが本当のお前なんだ…!」と怯える彼氏。

そんなときのために、彼女が最終的に用意しておいた人格、それが「徹底して汚いもの」だった。

なぜなら、ひとは、汚ければ汚いほど「相手の本性、本物、本質」だと無条件に信じる傾向にあるから。

これは当然ですよね、偽善というのは、その前提として「性悪説」を取るわけですから。

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だから、偽善の皮を剥いていけば、最後は「正直な悪」だけが残るのだと人は信じる。

そうやって無意識に思い込んでいるからこそ、その偽善を取り払ったあとに出てくるのは「利己的な悪」であって欲しいという無条件の期待をしてしまうということです。(ものすごく変な話ですが)

この小説も一番汚い人格を彼氏の前で演じることで、彼氏から無条件に安心され、包摂され、許されるという物語。

でも、実はそれさえも、彼女の複数ある演じられている人格のひとつに過ぎない。界隈ごとに分人化されている私のなかのその一つに過ぎない、そんな世にも奇妙な物語みたいなオチです。

村田沙耶香さんは、こういうディストピアを描くのが本当にお上手。

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で、結果としてやっぱり一周回って「やらない善」のほうが圧倒的に社会全体にとっては有益であるという話なのか…?

何周かまわって、やっぱりカントの道徳法則、定言命法が正しいという結論にもなるのか…?

たとえ、逃げる人物を敵からかくまうためであったとしても、嘘をついてはいけないという厳しい態度こそ正しい…のか?

とはいえ、ここまで考えるひとなんて一握り。このようないわゆる「肉を切らせて骨を断つ」なんて判断は普通できない。

やっぱりみんな自分のことがいちばん可愛いし、僕だって「急迫不正の侵害」を受けているタイミングにおいて、つまり現場でまさに今その瞬間に自分が当事者になれば、まったく同じことを行ってしまうと思います。

そこまで、できた人間じゃない。

むずかしい、本当にむずかしい問題だなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。