毎回配信を楽しみにしているNHKオンデマンドの「歎異抄にであう」シリーズ。


第5回で、解説者である阿満利麿さんが、以下のようなことを語っていました。

「宗教がイデオロギー的に、政治によって使われる。宗教はアヘンの役割を果たす。そういうことを知っている人は絶対に宗教には近づかない、誇りを持って無宗教を選ぶ、こういう人もいるわけですよね。私はそれは当然だと思う。

しかし、持続する精神がないと、社会変革は成り立たちませんよ。思いつきだけではどうしようもない、一代だけではどうしようもない。

そこに『持続』というものを引き出す場として、宗教というものの価値をちゃんと正当に認めることが必要だと思います。」


このお話は、個人的にはとても腑に落ちました。気づいたら自然と文字起こしをしていた。

僕の意訳も含まれているので、直接ご自身の耳で該当部分を聞いてみてください。とくに「思いつきだけではどうしようもない、一代だけではどうしようもない」という言葉への力の込め方は、実際にご本人の口から直接聴いてみて欲しいです。

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思うに、現代における「持続可能性(サスティナビリティ)」の問題点というのは、きっとここにあるように感じます。

本当の意味での「持続可能性」は功利主義的な発想では絶対にたどり着けないことは、もうハッキリとしているように思います。

なぜなら、ひとりひとりの現世で残っている寿命が全く異なるわけですから。そのうえで、それぞれの幸福や利益が異なるのも当然と言えば、当然のこと。

ご高齢の方々が、自分たちの「幸福と利益」のために若い人たちから吸い上げる(若い人たちの借金にしていく)か、映画「PLAN75」のように、貧困の高齢者の方々に対して「最後はキレイに安楽死で死んでください、お金はあげるから」のどちらかになることは、もう目に見えている。

参照:これから生まれてくる若い人々をアイヒマンにしてはいけない。

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また、最近よく見かけるのは、若い優秀なひとたちが、優秀であるがゆえに絶望している姿も本当によく見かけます。

自分という個人の人間の無力感に苛まれている印象です。どうせ、100年程度で終わってしまう私の人生で何ができようかと。

100年という期間は、人生の暇つぶしには長すぎるけれど、世界を本当の意味で理解し、変革するには短すぎる。

変わって欲しい未来像は思い描けても、それをひとりで実現するためには、あまりにも短い。

その絶望から、どうすればひとは脱することができるのか。

やはり、自分が死んだあとも継続してくだろうと思える「何か」に、託すしかないのだと思います。世代を超えて持続していくために、より大きな共同体とつながっている感覚を再び獲得していくほかない。

私が死んだあとも、この理想は継続されていくだろうという感覚を持つことができない限り、その無力感はいつまでも続いていくでしょう。

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だからといって、単純に「宗教」を復活させればいいとはまったく思っていません。(ここは絶対に誤解して欲しくない部分です)

たとえば、同じく親鸞の教えを守りながらも、めちゃくちゃ人間らしい煩悩にまみれて、340年以上もの長いあいだ、小競り合いしてきたお寺さん同士の番組も最近放送されていました。


これは、近年和解できた例らしいのですが、戦国時代から最近までずっと喧嘩していたらしい。ある意味で、非常に人間らしくて素晴らしいなあと思いました。

こういう人々も救ってくれるのが、「阿弥陀の本願」の思想なわけだから、きっと本人たちにも納得感があったのだと思います。

とはいえ、いまさらこのようなこと再び繰り返す必要も全くない。もちろん「国家神道」のような宗教の皮を被った「全体主義」を復権させるなんてもってのほかです。

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きっといま本当に必要なものは「宗教」ではなく、ひとりひとりの「宗教性」の獲得なのだと思います。

「宗教」と「宗教性」は全く異なるというのは、心理学者・河合隼雄さんから学んだ言葉です。

そして、哲学者・池田晶子さんの以下の言葉も、似たような意味合いなのかもしれません。

私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるからである。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをずうーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである。〔中略〕     
新しき宗教性は、だから、いまや「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは「宗-教」ではない。教祖も教団も教理も要らない、それは信仰ではない。それは、最初から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。

引用元:若松 英輔 著『不滅の哲学 池田晶子』


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私たちがこれから獲得していかなければいけない「宗教性」とは一体何なのか。

このWasei Salonは、そんなこともしっかりと対話しながら考えていくことができる場にしていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。