今日も、昨日に引き続き、東畑開人さんの新刊『カウンセリングとは何か』の中で印象に残っている部分をご紹介したいと思います。
ただついていくだけの「沈黙」が呼び起こす勇気。
昨日は、理想的なA面だとすれば、今日は非常に現実的なB面みたいなお話です。
この両方の側面が大事だと思うからこそ、連日で本書についてご紹介してみたいなと思います。
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さて、今日は「ラポール(信頼関係)」のお話です。
昨日もご紹介したように、東畑さんは本書のなかで「生活面の問題」と「実存的な問題」を切り分けて考えることを提案されている。
そして、生活面の問題に直面しているクライアントに対して、具体的なソーシャルな介入を最初に行うこと、そのときに「ラポール」が形成されるのだという話を書かれていました。
そして、東畑さんにとって、ラポールとは一般的な解釈と異なる解釈を取っていると書かれていて、その話がとても印象的でした。
実際に本書から直接引用したほうがわかりやすいかと思うので、さっそく少し引用してみたいと思います。
「ラポール」とはカウンセリングの教科書の最初に出てくる概念で、カウンセラーとユーザーの間で結ばれる信頼関係のことを言います。通常それはカウンセラーが受容的で、共感的な態度をとることで成立すると書かれているのですが、僕は違うと思っています。
「役に立つ」「このカウンセラーは使える」、この感覚があってはじめて、ラポールは生まれてきます。そのためには実際に役に立つアセスメントをし、介入をする必要がある。信頼というのは、人柄とか、人徳とかから生まれるわけではないのが大事です。的確なアセスメントと具体的な対応から生まれる。
この部分を読んで、僕は本当に強く膝をたたきました。
「これだったのか、今まで自分が漠然と感じていたラポールの一般的な解釈に対する違和感は…!」と。
そして僕は毎回こういう箇所に、東畑開人さんの「理想を忘れない現実主義」の姿を見て、心から素晴らしいなあと感じます。
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「役に立つ」「このカウンセラーは使える」という体験をユーザーが実感することで「ラポール」が生まれてくる。
どこまでも良い意味で「したたか(実利主義)」で、なおかつ常にユーザー(クライアント)目線なんですよね。
決して、カウンセラー側からの理想や道徳など耳心地の良い話や、学問的な机上の空論だったりに逃げずに、常に目の前の現実と向き合い続けるその姿勢。
他にも『聞く技術 聞いてもらう技術』の本の中でも、はっきりと「対人支援には、お金が大事」という話を丁寧に書かれていたことも思い出しました。
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で、これは余談ですが、先日Wasei Salonのメンバーの方に「どうしてそんなに東畑開人さんの本をよく読まれるんですか?」と聞かれました。
確かに僕は、東畑さんの本を好き好んでよく読んでいて、電子版が出ているものは全部読んでいるし、オーディオブック化されていれば、オーディオブック版でも何度も繰り返し聴いています。
その時は「河合隼雄の系譜を継いでいて、それを現代に当てはめて見事に語ってくれるからですかね」と返答したのですが、その意味するところ、具体的にはここにあるなと思います。
つまり、現代の諸問題に見事にアジャストしてくれている。
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言い換えると、現代の複雑さや常識、そこに開き直るわけでもなく、かといって、ユートピア的な理想に溺れることもなく、まさに現代における「清濁併せ呑む態度」を真の意味で体現してくれている方だなと思うのです。
そして、クライアントとカウンセラーの関係性だけで、成立するようなオフレコの話ではなく、それを読む人たち(その対幻想を眺めている一般読者)そんな世間の気持ちも、ちゃんと慮っていることがしっかりと伝わってきて、本当に素晴らしいなと。(つまり、常識から離れすぎることもない)
その多方面への配慮や洞察が、地に足がついているなあと感じさせてくれるし、以前ご紹介した花森安治の「眼は高く、手は低く」という話なんかにもつながっていく。
「自己肯定感は高く、自己評価は低く。」
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この点、どうしても現代におけるカウンセリングやケア文脈の主張は理想論ばかりで、歯が浮くような話題になりがちです。
当然ですよね、現実主義的な部分に対してのカウンターとして機能させたいからで、現代が世知辛くなればなるほど、必然的にどうすれば献身的に優しく立ち振る舞っていくのかという話になるわけですから。
あとは、カウンセリングに限らず、同様に「コーチング」が好きな人たちもどうしても理想論ばかりになりがちだなと感じます。
そして、それがたぶん世間一般的に「コーチング」が微妙に毛嫌いされている理由でもあるかと思います。
これは、なかなかうまく表現するのがむずかしいですが、コーチングを行う人々は、駅前で謎の冊子を携えて、身ぎれいな感じの「私は無害で、いい人です」という感じを装っている宗教の勧誘みたいに見えてしまう。
確かにあなたたちの言っていることは、最初から最後まで圧倒的に「正しい」のかもしれないけれど、それは逆に言えば、ただひたすらに正しいだけだよね、と。
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正しさを強調すればするほど、建前が全面に出てしまって浮足立ってみえてしまう。
人間の汚いところ、つまり本音からただ目を背けているだけのようにも見えてしまう。
そうすると、確かに汚いところを見たくない、聴きたくないという人たちからすると、お互いに共鳴できるようになるのかもしれないけれど、そうやって「美しい世界」しかみようとしない界隈感がそこに見事に完成してしまうわけです。
「そこまで美しい世界を実現したいんだったら、まずはあの角で困っているホームレスの人を直接助けてあげれば良いのではないですか?」と思うのだけれども、でもきっと彼らの目には入っていない。
ほんとうに大げさではなく、一切存在しないものとなっているのだと思います。
それと似たような構造的なジレンマが、「コーチング」界隈のラポールの築き方、その盲目的な世界には存在しているなあと思わされる時があります。
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僕が東畑さんが好きなところは、不潔なところは不潔なまま、剥き出しの欲望の存在もまずは認めて、剥き出しなままに包摂してくれる。黙ってそこに毛布をかけてくれる感じなんです。
最近、小泉八雲の妻である、小泉節子の『思い出の記』の朗読を聴いていた中で、小泉八雲の何気ない立ち振舞いの一コマとして、子どもたちにいたずらされて、びっしょり濡れてぶるぶるふるえている猫を、そのまま自分の懐に入れて自分が濡れることもお構いなしで、暖めてやっていたという逸話が紹介されていましたが、まさにそんなイメージにも近い。
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あと、こちらは形式的なテクニックとして、ものすごく細かな話ですが、このラポールの話はミニコラムとして、ちゃんと本筋とは別軸の話として、本の中に置いてくれているところにも、細かな配慮が行き届いているなあと感じました。
あくまで閑話休題的な場面で挿入されているお話であり、ふっと視線を上げてくれるし、「正義」側に偏りすぎないでもいてくれる。
どうしても、こういう本を手にとって読んでいるとき、僕ら読者は「いま自分は良いことをしている」もしくは「これから良いことするために、いま学んでいる」って、カンタンに勇者モードに入ってしまいがちだから。
そんなときに、ちょうどいい塩梅で現実を突きつけてくるわけです。そのタイミングやテンションがいつも本当に素晴らしいなあと思わされます。
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糸井重里さんが頻繁に言及されている思想家・吉本隆明の言葉のように、本当は「いいことをしているときは、悪いことをしていると思うくらいでちょうどいい」。
あとは先日もご紹介した遠藤周作の『生き上手、死に上手』という本の中で、遠藤周作ご本人の造語である「善魔」という言葉が紹介されていて、こちらも今日の話と見事につながるなと思ったので、最後に合わせてご紹介しておきたいなと思います。
以下は本書からの引用となります。
この年齢になると、なぜか「善魔」という二文字がしきりに頭にうかぶ。
善魔などという言葉はもちろん字引にはない。がしかしそれに対応する「悪魔」という言葉はもちろんある。
(中略)
感情に突きうごかされて行った愛なり善なりは、相手にどういう影響を与えているか考えないことが多い。
ひょっとするとこちらの善や愛が相手には非常な重荷になっている場合だって多いのである。向うにとっては有難迷惑な時だって多いのである。
それなのに、当人はそれに気づかず、自分の愛や善の感情におぼれ、眼くらんで自己満足をしているのだ。
こういう人のことを善魔という。そしてかく言う私も自分がこの善魔であって他人を知らずに傷つけていた経験を過去にいくつでも持っている。
遠藤周作は、自戒も込めながら、その原因は二つあると書いていました。
ひとつは相手の心情に細かい思いをいたさなかったこと。
もうひとつは自己満足のあまりに行き過ぎてしまったこと。
そして、若い人と話をしていると誠実で真面目な者ほどこの善魔型が多いと語るんですよね。
社会不正を憎むあまり、正義感に燃えるあまり、眼がくらんで、その感情に突き動かされた行為が、それを受ける者や周りにどういう反応を与え、どういう影響を与えているかを一切考えない。
一時期の学生運動の人たちにも、この善魔型があったし、女性のなかにも善魔型はかなりいると書かれていました。
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この「善魔」の自分と、ちゃんと真正面から出会い、向き合ったうえで共に歩めるかどうか。
極端な環境活動家も、ラディカルなフェミニストも、言ってることが間違っているのではなく、この「善魔」に完全に取り憑かれてしまったひとたちだと僕は思います。
この自らの善魔の自覚、対人支援の場における不潔さや現実と真正面から向き合えるかどうか、それがひとつの分かれ目のように思います。
そうすれば、きっと本当の意味で対相手だけに限らず、対世界との間でも「ラポール」は成立するはずですから。
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あと最後にこれは完全に蛇足ではありつつ、最近よく思うのは「どうせ◯◯」のあと、どうせに続く言葉は、全部本当なんです。
しかもそれが、若い人の直感で感じた「どうせ◯◯」であれば、なおのことそのとおりで間違いない。それは圧倒的な真理です。
でも、だからこそ「それでもなお(そのうえでなお)」だと思うんですよね。
もしくは、振り切るなら、徹底して振り切れ。中途半端に開き直るな、どこまでも落ち切れ、ということだと思います。
「どうせ」という絶望こそが現実のはじまりであり、そこからどうやって理想をひとつずつ体現していくのか。
そんな本質的な意味での「ラポール」の築き方をおしえてくれる素晴らしいスタンスだなあと思ったので、今日はB面として連日で東畑さんの本をご紹介してみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。