今日は、先日書いた「現代アートの価値と、純文学における『沈黙』の意味」のブログの続きです。
このブログの最後、蛇足のように書いた「沈黙」は河合隼雄さんの言う「何もしないことに、全力を注ぐ」というカウンセラーの姿勢や態度の話にも見事につながるということ。
そのような「沈黙」や「静寂」的な働きかけや、寄り添い方、付き添い方をしてもらえるからこそ、僕らは自らの内側から自然と湧いてくる「勇気」が出るんだ、という話を改めてこのブログの中で考えてみたいなあと思います。
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これを考えるきっかけとなったのは、東畑開人さんの新刊『カウンセリングとは何か』です。
冒頭から余談なのですが、この本は、本当に素晴らしい本。
いつもならすぐにそこで得た学びをブログでご紹介しながら、自分でも考えを深めてみたくなるのですが、今回はそれがやりたくてもできませんでした。
なぜなら、読み終えてからも、しばし呆然としてしまったから。
数年に1回あるかないかの読書体験が、このタイミングでやってきました。
あまりにも描かれている内容が、壮大かつ深すぎて、自分のなかで咀嚼するのにかなり時間がかかる内容だったんですよね。
これから読もうと思っている方は、くれぐれも読むタイミングをちゃんと見極めて読んでみてください。
しばし呆然とできる時間があるときに読み終えるのが、きっと吉だと思います。
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とはいえ、いつまでも自分だけの余韻に浸っているだけなのももったいないし、少しずつそこで得られた学びを発信していこうと思い、今このブログを書いています。
それが自分の責務でもあるから。
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で、いきなり本書の後半部分の話になってしまうのですが、『なにもしないことに全力をあげる』という河合隼雄さんの話が、本書の中でも繰り返し言及されていました。
クライアントがおずおずと話し始めると、ただ「うんうんとついてきてくれる」そんな存在。
そうして「ついてきてくれるなら、行きましょう」とも思えるようになるんだと。私が行くのをずっと見守ってくれている、そんな存在がカウンセラーであり、そうするとクライアントの心の底で深いものが動き出すのだ、と。
東畑開人さんはこのときに立ち現れるものが「勇気」であると書かれていました。
「ついてきてくれるなら行きましょう。これが勇気の正体です」と。
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今だったら、ここで書かれていることがとてもようわかるなと思うし、きっとみなさんにも伝わっているはず。
つまり、カウンセラーは、相手にとっての擬似的な「静寂」や「沈黙」になることが大事だということですよね。
「擬似的な神的存在」と言えば、それは言い過ぎだと思われても、ちょっとだけ反応がある人間だからできる「沈黙」の役割がこれ。
もちろん、本当の「沈黙」の理想は何も語らないことです。
どんなに辛いときであっても、沈黙し続ける状態こそが神でもあるし、その無言の残酷さも含めて神の意志である、それを物語形式で描いてくれている作品が、まさに遠藤周作の『沈黙』という小説でもあると思います。
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だけれども、普通に生きていたら、墓参りとしての墓石だけだったり、神が宿る場としての教会や神社だったりすると、さすがに張り合いがない。
暖簾に腕押し感が満載ですし、糠に釘状態でつまらなく、歩むことさえも諦めてしまう。
でも、一方で、その付近に常駐している坊主や神父、神主だとちょっと踏み込みすぎて余計な口を出しすぎるということなのだと思います。(彼らも、ビジネスだから仕方ない)
そうじゃなくて、擬似的な「静寂」や「沈黙」、ちょっとだけ反応がある存在。
何もしないことを全力でしてくれて、「うんうん」とついていくだけの存在になれるかどうか。
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で、この本のなかでは非常に印象的な場面で河合隼雄さんの「話すことは、離すことでもある」というあの話も、同時に語られていました。
そして、なぜ話す必要があるのかと言えば、過去を物語るのは、起きた出来事を現在から引きはがし、過去に置いておくためだとも書かれていました。
この点は、とても印象深かった部分なので少し直接引用してみたいと思います。
カウンセリングをしていると、真に難しいのは新しい物語をはじめることではなく、古い物語を終えることだと切に思います。
僕らは古い物語を背負っていて、それに執着することで、行き詰まってしまう。そこには古い夢があり、古い幻想があります。それは過去の大切な誰かからもらったものであったり、植え付けられたものだったり、一緒に作り上げたものだったりします。
だからこそ、古い物語を終わらせることには痛みがある。古い物語から離れるためには、その過去の誰かとの心理的な別れを経験しないといけないからです。そこには喪失があり、孤独がある。その痛みに持ちこたえるためには、他者とのつながりが必要です。
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これは本当に大事な視点だと思います。
また、いま世の中で完全に見落とされているポイントでもあると感じる。
古い物語をちゃんと終えること。ちゃんと終えれば、そこからまた新しい物語も、その物語の系譜を継いだうえで再出発するような形で始まっていく。
僕が最近ずっと言い続けている「弔い」の話も、まさにここにつながる。
そして、生きるうえで、本当にむずかしいことがこの弔いだよなと思います。
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でも本当は、終えることが一番大切だし、そうやって過去を適切に弔うこと。そうしないと、どうしても僕らは行き詰まってしまう。変化の激しい時代はなおさらです。
そして、最終的には、情緒不安定からの鬱になってしまう。
で、そのときには必要な支援というか寄り添いが、今日ずっと語ってきた、ただ「うんうん」と黙ってついてきてくれるということだし、そのことを河合隼雄さんは「カウンセラーの仕事は、何もしないことを全力でする」という言葉で説明してくれていたのだと思います。
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で、これを別の視点から眺めると、純文学というのは、時空を超えて、この「他者とのつながり」をつくりだしてくれているということでもあると思うのですよね。
それは、作者と読者においてかもしれないし、物語の登場人物と読者においてもそうかもしれない。
どちらにせよ、意図的な「沈黙」を物語全体を通して描いてくれている。
だから、ビジネス書や大衆小説のように、なにかわかりやすいメッセージや発破をかけてくれるわけでもないのだけれども、読み終えたあとに読者は、自然と自分の内側から「勇気」が湧いてくる。
そして、自己の古い物語を終えて、新しい物語に再出発しようと思えるわけです。
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ただ、やっぱりそこにも、読者の積極性が求められてしまう。
いつでも本は読者に向けて開かれてはいるのだけれど、読もうとしない人間にとっては、いつまでもその恩恵は受けられない。
そして現代人はそれを読むには、忙しすぎる。疲れすぎている。純文学を読むだけの気力も体力も存在しない。
だとしたらやっぱり、ある程度あちら側から出迎えてもらう、そのうえでついてきてもらう、それぐらいの受動性が必要なんだと思います。
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もちろん、僕はカウンセラーでもないし、純文学を書くような小説家でもない。
でもこの姿勢や態度は、対人支援の現場において本当に大事な態度だと思います。
特に、実存的な悩み、その支援の現場では一番求められる状態。
東畑さんは、本書の中で「実存の問題」と「生活の問題」をしっかりと切り分けて語られています。
生活に困窮し、今日の生き死が大事な場面で、こんな対人支援は、むしろ逆効果だとも書かれていました。
そして現代では、このような実存的な悩みは、贅沢な悩みとして自分で解決しなければならないともされている。
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だからこそ現代には、そんな実存的な対人支援がほとんど存在しない。
「そんなこと考えるなら仕事しろ、忙しく働け、そうすればそんな悩みなんて吹き飛ぶぞ」というのは実際にそのとおりだけれど、そう考えれば考えるほど、太宰治の短編である『トカトントン』のような状況に陥っていく。
太宰治の『トカトントン』は、主人公が人生の様々な場面で感じる虚無感を描いた短編です。
恋愛に夢中になっているとき、学問に打ち込んでいるとき、あるいは戦争に熱狂しているとき、ふと「トカトントン」という大工の金槌の音が聞こえてくるというお話です。
この作品自体は、そんな人間の営みの背後に潜む実存的な虚無感と、それでも生きなければならない人間の葛藤を描いていて、「トカトントン」の音は我に返る、虚無だと捉え、避けるべきネガティブな状態と一般的な解釈するようなのだけれども、僕は明確にその意見には反対です。
そうじゃなくて、これこそ、まさに「声なき声」の正体だと思うし、「沈黙の声」、その発声主の「足音」みたいなものだと思っている。
もちろん「トカトントン」に正しい答えやメッセージ、その意味はない。「声なき声」は、それを聴く者の聴き方次第なんです。
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だとすれば、トカトントンという音と共に訪れる、あの実存的な虚無感が訪れる瞬間に、しっかりと向き合うための場をつくりたい。
そんな音が聞こえてくるひとたちに対して「ついてきてくれるなら、いきましょう」と思ってもらいたい。
その「勇気」を得て欲しい。
トカトントンのラストで、太宰治本人であろう小説家からのアドバイスとして、「真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです」というのはまさにです。
僕はそのための「場づくり」がしたいんですよね。
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情緒不安定からの鬱になる、そんな対人カウンセリングが必要なフェーズまでいかない中でも、しっかりと実存的な悩みや不安から逃げずに考えられる場所。
そしてそれはきっとオンラインコミュニティぐらいがちょうどいいと思うんですよね。
だって、オンラインコミュニティは「独り言」を語るのに、ちょうどいい距離感だから。良い意味で聞き流せる。つまりお互いに「沈黙」し合えるわけです。
でも、カウンセリングのような対人支援だと、独り言にならない。私が言葉を発した時点で、明確に相手が宛先(カウンセラー)になってしまう。そこには独り言は原理的に存在し得ない。
僕がWasei Salonという空間を通して、みなさんと共に実現したいこと、その空間の意義がまたひとつ明確になったような気がしています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。