昨日、東京で開催された哲学者・苫野一徳さんとその師匠である竹田青嗣さんのトークイベントにリアルで参加してきました。
「鉄は熱いうちに打て」ではないですが、リアルの空間で行われるトークイベントに対して好奇心が高まっているなか、1週間も経過しないうちに、2本目のリアルトークイベントとなります。
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現地で実際に参加してみて、本当に良かったなあと思います。
僕は、苫野一徳さんのVoicyはすべて拝聴していて、いつか実際にお目にかかりたいと思っていたので、ご本人がお話している姿を実際に見ることができて、それだけでも非常に実りが多い時間でした。
一方で、おふたりが、ものすごくいいお話が語られているからこそ、なんだか同時にめちゃくちゃモヤモヤもしたというのが、正直なところです。
今日は、この自分自身が感じたモヤモヤの正体とは一体何だったのか。そんな正直な気持ちを、このブログに書きながら、自分なりにしっかりと発見してみたいなと思います。
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この点、僕がいちばん強く身体性を伴って実感できたのは、ものすごく大事なことがこの場で語られているのに、このセミナー教室から一歩出てしまったら、この話が一切伝わらないこと。
イベントは、青山にあるNHKの文化センターで行われていたのですが、ビルから一歩出て街行く人にこの話をしてみたところで、きょとんとされるだけで、きっと何も伝わらない。
イベント中で語られていた「自分たちは真理に到達し、『ほんとう』を見つけた。自分以上に過去の有名な哲学者たちの本を読んでいるひとはいない。ヨーロッパにも、自分たちが今考えているような真理まで到達している哲学者はいない」などなど、堂々と語ってみたところで、それはセミナー教室を一歩出た瞬間から、まったく伝わらないわけです。
一方で、じゃあそこから導かれた具体的な提案は何かといえば「本質観取」のようなものになる。要は、市民を巻き込んだ哲学カフェみたいなもの。
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その空間的な断絶を感じ取れたことが、イベントに参加してみないと絶対にわからなかったことだったなと思います。
「あー、哲学というのは、真理はどこまでも探求することができても、その社会実装への具体的な道筋は語れないんだな」と強く感じました。
「私たちは理想的な『社会』の真理を発見した」という話の中で、じゃあそれがどうやったら実現できるの?となったときに、
途端に「市民レベルで気軽に開催できる本質観取を広げていきましょう」と、そんな草の根運動みたいな話になってしまう。
現場に行ってみたからこそ、その落差が非常に激しいことをなんだか強く実感しました。
もちろん、それが悪いと言っているわけではなく「哲学」に期待しすぎていた自分自身にハッとさせられたということです。
逆に言うと、こんなに気持ちよくモヤモヤと考えさせてくれることが哲学の良いところでもあり、イベント自体も、ちゃんとある種の「別世」としても機能していた場だったなと思います。
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この点、ちょうど今回のイベントのタイトルが「哲学の力を信じる」というタイトルだったのですが、まさにそういうことだよなあと思います。
哲学は、その力を信じるものであり、実際に世界に対して何か具体的なインパクトを直に与えられるものではない。
これはある種の諦念のようでありながらも、それゆえに哲学が安易な自己啓発やビジネスツールに回収されないための最後の砦である、ということでもあります。
だから、ものすごく大きな希望でもある。
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ただ、その哲学の最後の砦感が、逆にあの空間の中だけでしか通用する話にしかならないという限界も同時に目の当たりにしました。
一歩ビルの外に出た瞬間には、通行人に対しては「外国語」のようになってしまって一切通じない。
イベントの中でも、何度も呪文のように唱えられていた「自由の相互承認、一般意志、一般福祉」の話は、それがどこまでも真理に撃ち抜かれた一つの到達点であっても、その到達点がまったくもって理解はされない。
もちろん、順を追って説明すれば万人が納得する考え方だという前提があって、「それこそがよい社会だ」と言えたとしても、その思想自体を、哲学の本を読む習慣を持たない一般人に普及させるための手立ては持たない。
それぐらい、ものすごくハイコンテキストなものが哲学だということなんでしょうね。
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一方で、会場内には哲学を一生懸命に学んできて、哲学が大好きそうな僕よりも一回りぐらい上のひとたちが50人以上も集まっていました。男女もちょうど半々ぐらいだったと思います。
トークの中で、哲学者の名前や難解な専門用語が出てくれば出てくるほど「ソレも知っている、アレも知っている」と、とてもニコニコしながら大きくうなづきつつ、非常に楽しそうに話を聴いていた。
これは決して批判しているわけではなく、それがものすごく良いことだと思います。
一般社会の中で普通に暮らしていれば、周囲には哲学の話題について語れるひとなんていない中で、あたかも一般常識かのようにして、軽々と哲学者たちの名前や難解な専門用語が飛び交う空間は、たまらなく嬉しくなる気持ちは、とてもよくわかる。
僕のような哲学の初学者でさえ、そう感じました。何度も本で読んだことがある話だと、感動しながら聴いていた。
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変な喩えですが、これはラーメン二郎に行ったときのような気持ちにも、なんだかとてもよく似ているなと。
自分が事前に一生懸命リサーチをして、カウンターの中にいる店員さんから質問されたときに、美しく答えられたときの、あの感動なんかにとてもよく似ている。
「自分もジロリアンの一員になれた!」みたいな喜びのようなもの。でも二郎の行列を一歩離れた瞬間に「あんな量が多いだけの大雑把な味のラーメンの一体何がいいの?」と真面目な顔で一般人から問われてしまう感覚にも非常によく似ている。
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そう考えると、これはある種の「推し活」なんだとも思いました。
苫野一徳さんがVoicyの中で繰り返し言及しているように「哲学は2500年の歴史がある、そんな思考のリレー」。
つまり、哲学こそ、この世界で「文脈依存」型の最たるものなんだということも、なんだか深く理解できました。
そして、そんな哲学を広く読んでいるひとたち、つまり文脈を深く把握しているひとたちが、結果的に古参のファンになる。
思考のバトンリレーである限り、否応なくどれだけの数の本を読んできたのか、という序列がそこに生まれてしまうわけです。
そして、昨日のイベント会場には苫野一徳さんや竹田青嗣さんを中心にしながら、哲学を推してるひとたちが純粋に集まっていた。
繰り返しになりますが、そこには素晴らしいつながりや、共鳴を生み出す稀有な空間にもなっていました。
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でも、そういう会場の様子を見れば見るほど、どうしたら、その真理をもとにしながら、実際の「社会」や「生活」が変わるのかを考えてしまった。
そちらのほうに、僕は強く興味が惹かれてしまった。
言い換えると、「私たちは真理を発見した」と言ってみたところで、もはやそれが世間や世の中と接続されるための回路がほとんど存在していない。
きっと、いま本当に必要なのはその回路のほう。
60年代ぐらいの学生運動が盛んでマルクス主義が全盛期だった頃までは、今みたいにインターネットもなく、SNSもなく、エンタメも少なかった時代だから、ある種のそんな衒学的な議論が、人々、特に血気盛んで頭のいい若者たちのちょうど良いエンタメになり得ていた。
それはとても楽しく、刺激的なものだったものにも違いない。
でも、いまこれだけエンタメが溢れる時代、即物的で中毒的なエンタメが日常的に転がっている中で、そんな難解なものが、人々に面白がられるわけがないのも明白だろうなあと思います。
また、だからこそ「本質看守や哲学対話を市民レベルで広げましょう」といった提案が繰り返されるわけであり、それも決して間違っていないけれど、今のこの時代においては、やはり力不足も否めない。
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だとしたら、きっと異なるアプローチが必要なのだと思います。
イベントの質疑応答の中でおふたりが強く批判されていた、マルクス・ガブリエルのようなあえて俗っぽい提案をして、企業と哲学者がタッグを組むような取り組みなんかもそう。
とりあえず、哲学に興味を持たせて、嘘でもいいから、人文知を社会に実装しよう、という取り組みが生まれてくる理由なんかもよく分かる。
でも哲学は、それこそがいちばん間違っていると言い続けているし、言いつづけなければいけない学問でもある。最後の砦というのは、そういう意味でもあります。
哲学の名を語り、安易な道徳を振りかざして、大衆迎合的になって社会に接続しようとする取り組みほど批判せざるを得ない。
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ここも非常にむずかしいところだなと思いました。
哲学者たちは、真理を探求しているからこそ、誰もが同意せざるを得ない白黒ハッキリさせたことしか語らないし、語れない。
そこに到達するまでの、グレーな部分は一切認められない。「嘘も方便」的な導き方は決して許されないのが、東洋哲学と異なる、西洋哲学の系譜なわけですよね。
つまり、哲学の純粋性を貫けば貫くほど、社会への具体的な影響力(有効性)を失ってしまう。
これがハッキリと理解できたことが、昨日の一番の収穫でしたし、なんだかとても学びが深まる瞬間でした。
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哲学の限界、そしてだからこそ「生活」と紐づくこと、まさに吉本隆明が抱いていた問題意識や、その系譜を継ぐ糸井さんやほぼ日の問題意識なんかにもつながるんだろうなと思います。
本質観取や哲学カフェに変わる具体的な施策が何かあるわけではないけれど、少なくとも「なぜ、哲学が世の中に普及していかないのか」という問いに対して、自分なりの手応えや腹落ち感のある実感を、リアルの場に直接参加してみることで味わうことができました。
非常に貴重な体験だったし、これからも考えていきたいテーマだなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/06/15 20:31