昨夜、SWCのメンバーのノマさんにお誘いいただき、ノマさんの配信されているスタエフの「スナックnoma」という企画でお話させてもらいました。
ノマさんが終始とても丁寧にお話を聞いてくださったおかげで、「トークン」「コミュニティ」「AI」にまつわる話題について、ものすごく正直に、そして率直に自分の本音をお話することができました。いま振り返ってみても本当にありがたい時間。
このご縁をつないでくれた、Wasei Salonメンバーでもあるユノートルさんにもとても感謝しています。
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で、さらに、これは配信中には触れられなかったのですが、SWCのメンバーのみなさんにも本当に感謝だなあと思っています。
というのも、みなさんがそれぞれの親切心を持って出迎えてくださり、当日のコメント欄や事前Twitterの盛り上がりなどで、とても話やすい雰囲気を全員でつくってくれたことが本当にありがたかったなあと。
まさにこれがコミュニティのちからだなと思いました。
ノマさんやユノートルさんだけでなく、コミュニティ全体として歓迎してくれていることがひしひしと伝わってくる、そんな時間だったんです。
言い換えると、みなさんが僕に対して抱いてくれているその「敬意」のようなものがハッキリと伝わってきて、決してなにか具体的な見返りを求められるわけでもなく、ただただ歓待されている感じを味わえました。
SWCメンバーのみなさんのジェントル精神が溢れていて、本当に素晴らしいコミュニティだなあと実感することができた感じがします。
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さて今日は、昨日の配信の中でうまく答えきれなかったと思うお話について、補足的にこのブログの中でも考えてみたいなあと思います。
聞いていただいていた質問の以下の内容になります。
AIがどんどん表現の領域に入ってきて、物語も映像も音楽も、かなりの部分がつくられるようになってきています。そういう時代に、人が「わざわざ表現すること」「表現し続ける理由」って、どこにあると思いますか?
これは、とっても素晴らしい問いだなと思いました。まさに今、このタイミングで考えてみたいことだし、考える価値があることだとも思います。
僕は、この問いの答えは2つのアプローチがあると思っています。
ひとつは、己を知るため、自己を知るため。
何かを書きながら自分の考えを次第に発見していくように、きっと文章に限らず、音楽でも映像でもアートでも、様々なクリエイターの方々が、そうやって「自分とは何者なのか」を知るうえで、創作活動を行うことは依然として価値があると思っています。
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そして、もうひとつは、ひととひととが「物語」を共有するため。
誤解を恐れずにもう少し直接的に言ってしまえば、ひととひととがつながるため。その結節点となるのが、人間が創り出す創作物なんだろうなあと。
で、それが創作物であるためには、ある意味では非効率であり、一見無駄に見えるからこそ、逆説的にそこに大きな価値が宿る。
「このひとは、なぜこんな創作物(クリエイティブ)をつくったのだろう?」という読みときとともに、そこに「物語」の共有が自然と始まっていくはずなのです。
で、その物語が一見すると「よくわからない」から、「わかりたい」と願い、知ろうとするわけですよね。そんなに熱心に作ったということは、自分という人間に対して、なにか大事なことを伝えてくれているだろうと思えるから。
その時に大切になるのは、内田樹さんの言葉を借りると、内容よりも「額縁」であり、そんなメタ・メッセージということになるんだろうなあと。
具体的には、受け手に対しての深い敬意と、懇請する姿勢があるために「何かはよくわからないけれど、私は知らねばならない」という想いなんかも受け手が自然と抱いていく。
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でもAIの場合「なぜあなたはそれをつくったのですか?」とAIに問うてみたところで、仕方ないわけです。そこには「プロンプトを与えられたから」しか答えはないわけで。
AIには抱えきれないほどの熱量や、「どうしてもこれを表現して伝えたい…!」という潜在意識レベルの想いがあるわけでもない。
そう考えると、そのための入れ物や器になれるのは「有限性」を持っている人間だけなんですよね。
自己の限りある貴重な時間をわざわざ用いてまで、創作や創造を行い、そして大いなるムダを行うことで、初めてそこに意味が宿ると思うのです。
その「浪費」にこそ、物語の解釈し合う余地が生まれてくる。そこに人間がつくりだした「物語の力」が存在していると僕は思います。
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で、「物語の力」ということを考えるときに、僕がいつも思い出してしまうのは、村上春樹さんの空中庭園のお話。
過去に何度もご紹介してきたけれど、改めてここでもご紹介したい。
村上春樹さんは、人間にはさあ書こうと思って机に向かっても、実際に何を書けばいいのかというと、それがよくわからないことがあると語ります。たとえば「自分は若かったんだ」という事実を、ひとつの証言として書こうとしても、それはあまりにも大きな主題であって、とてもそのままのかたちで小説になんかできない。
もしできたとしても、それはリアリティーを欠いた、すごく薄っぺらなものになってしまう、そんなときに村上春樹さん、つまり小説家はたちは何をするのかというお話を語ってくれています。
以下は、『若い読者のための短編小説案内』という本からの引用です。
じゃあ、僕らはそこで何をするかというと、そのかわりにひとつのファンタジーをでっちあげるわけです。つまりいくつかの重い事実の集積を、ひとつの「夢みたいな作り話」にとりかえてしまうのです。空中庭園みたいにふっと地上から浮き上がらせてしまうわけです。そうすることによって、ようやくその物語は、僕らの手に負えるものになる。
(中略)
それを受け取る側も(つまり読者も)、自分の抱えている現実の証言をそのファンタジーに付託することができるわけです。言い換えれば幻想を共有することができるのです。それが要するに物語の力だと僕は思っています。
これは本当にとても大切なことを僕らに教えてくれているなあと思います。
そしてこの話に関連して、今朝ちょうど東畑開人さんが、河合隼雄さんの言葉をご紹介していたのが目に止まりました。
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結局、僕らは、自分たちのこの混沌とした感覚を”離して”、つながりたいんだと。
はなすことで、そこに自分たちの抱えている現実を付託しながら、他者とつながることができる。
ここに物語やクリエイティブの源泉や原型のようなものがあると思います。
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作家やクリエイターたちは、創世記や国産み神話時代から、ずっとその系譜を継いでいる。
で、それが緻密につくりこまれていればいるほど、従来は価値があるものだった。
神は細部に宿る、ものですから。その大いなるムダ、時間の浪費に、僕らはたまらないカタルシスを覚えるわけですよね。
だからこそ、物語のクオリティが圧倒的に重視された。
その有限性の浪費、またその人の宿命性みたいなところが、わかりやすいシグナリング効果を及ぼしていた。
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でも今、そのクオリティのみであれば、AIが簡単に模倣できるようになった。コピーして似たようなものを大量生産できるようになった。
でも、たとえそうやって無限にAIで創作できようになったところで、そもそもの源泉にある「ひととひととがつながりたい、共鳴したい」という欲望自体は一切変わらない。
”はなして”、付託させ、お互いに深くつながりあえたという感覚を持ちたくて、そのうえでお互いに共鳴する感覚を味わいたいというのは、いついかなる時代にもかわらない。
だとすれば、そのときに必要な人間のハンドメイド、創作の熱量とは一体何か、という話なのだと思います。
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もちろん、このときに、AIを使うな、ということではありません。
むしろ、AIという新たな道具を用いて、その人々の深い部分にある感情にしっかりと向き合って、新たな創作活動をする必要がある。
何度だって繰り返すけれど、いつだってその奥には、変わらない人間の欲求が存在するわけですから。
少なくとも「昔からクオリティに価値があるから、そしてその価値あるものを今は、AIに頼めばいくらでもカンタンにつくることができるようになったから、それさえ提供すればOKでしょ」という話ではない。
それは一昨日配信した、らふる中村さんとのプレミアム配信の中で話題にしたとおりで、それは何かをわかっているようで、何も一切わかっていない態度。
それは、それまでの技術レベルにおいての価値であり、これからはもう違う。
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5万年前からまったくかわらない、いつの時代にも人間に求められている創造性の意味というのは、きっとこのあたりにあると思います。
そのときに、いま立ち返るべきは、これまで不快だと思われていたもの、捨て去るべきものだと思われていた身体の「有限性」。
そこから立ちあらわれてくる「不自由さ」や、そこから生まれてくる「宿命性」なんだろうなあというのが、最近の僕の主張です。
何はともあれ、ぜひノマさんのスタエフにあるアーカイブも合わせて聴いてみてください。これ以外にも、僕が最近考えていることを、深く丁寧にお話させてもらいました。
ぜひみなさんの感想もお待ちしています!
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。