先日書いたブログの中で、コミュニティプラットフォーム・オシロの新機能である「コミュニティ内本棚」機能についてご紹介しました。


そのなかで以下のようなことを書きました。

コミュニティ内で完結するから、お互いに興味を持つことができる。
もしこれが、メンバーが個人で「読書メーター」を使っていても、そこまで興味は持てないんだと思います。それは「別界隈」での話になってしまうから。
むやみに覗かないことが逆に相手への敬意にもなる。ここも現代の本当におもしろいところ。


個人的にはこの発見はかなり目からウロコの発見でした。ただ、あまり伝わっていない気もします。

なので、今日のブログは、この発見についてもう少し具体的に深堀りして考えてみたいなと思います。

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この点、僕はコミュニティメンバーのサロン内ブログは読んでも、個人で書いているnoteはなぜかあまり読まない、というか読めないことが、ずっと不思議でした。

更新されていることは知っていても、なぜか読んじゃいけない感じがしていた。

そこにある感情はきっと「覗いたら、逆に失礼だ」みたいに思っていたんだと思うんですよね。

なぜなら、それは、相手の別界隈における一側面だから。

ある種の「プライバシーの尊重」みたいなところがあったんだろうあなと。

あくまで、僕が見てもいい、というか反応してもいいのは、そのひとのWasei Salon界隈に見せている顔であり、インターネット上でオープンに公開されているからといって、そちら側を積極的に覗きに行くのは、どこか相手の別界隈、別の分人を覗き見することになる。

そして、それは相手が望まない可能性もあると無意識に思っていたのだと思います。

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このような、違う界隈の相手の発信をむやみに覗かない敬意って、現代の暗黙のマナーになりつつある気がします。

よく現代の夫婦やカップルは、お互いのSNSをフォローし合わないという話を聴きますが、それもきっとこの現代的なマナーや敬意と配慮のあらわれのような気がしている。

それを見てしまうことによって、自らが不意に傷ついてしまうかもしれないという実害への不安もありつつ、やっぱり別界隈にいるときの相手、そのひとの分人化を尊重するということでもあるんだろうなあと。

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で、ここで思い出すのは、以前ご紹介した内田樹さんの「プライバシーの尊重」の話です。


もう一度、『身体知』という本から、内田樹さんのお話を引用してみたいと思います。

公私の別というのは、ドアが閉まっているとか施錠してあるとかいう物理的な条件じゃないと思うんです。そういう空間の問題じゃなくて、人間関係の中でのモードの切り替えのことだと思うんです。狭いところにいっしょに暮らしていて、隔てるものが一枚で音はまる聞こえなんだけれども、襖一枚を閉めることによって「隣の音は聞こえない」というふりをする。聞こえないかのようにふるまう。プライバシーの尊重というのは、そういうことだと思うんですよ。


この、聞こえているけれど、聞こえないふりをする。知ることができるけれど、知ろうとしないこと。

そのお互いの配慮が、本来のプライバシーの尊重だという話を本書で読んだとき、僕は本当に強く膝を打ちました。

つまり、ルールや法律、仕組みなどの客観や形式の問題ではなく、そこに参加するひとたち一人ひとりの中に備わっている受け取り方の節度の問題だということです。

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でも同時に、ここまで考えてくると、それこそが現代の分断を余計に加速させている原因にも思えてくる。

現代人がこの節度を持ち合わせすぎてしまっているがゆえに起きてしまっている現代の問題もあるんだろうなあと。

この点、過去に何度もご紹介してきた『Z家族』という書籍の中で、今の若い世代は「コンプラネイティブ」世代であり、コミュニティに恋愛を持ち込むことを過度に「リスク」と捉える傾向があると書かれていました。

 「場の空気を乱すくらいなら、マッチングアプリで出会うほうが安全」という考え方を持つそうなんですよね。

つまり、若者の間でマッチングアプリが恋愛のあり方として定着しつつあるのは、恋愛モードの自分を出しても「場のコンプラ」に引っかかることはないから、という背景もあるらしいのです。

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これは若いひとに限らず、僕らもきっとそう。

徹底してコミュニティ界隈ごとのコンプラを遵守する風潮がある。

実際、Wasei Salonのなかでも、誰かが明言しているわけではないけれど、ここでの恋愛はご法度みたいな空気は間違いなくあると思います。

たぶんそれは、意図的に避けているというよりも、そういうコンプラ意識をみなさんが持ち合わせてくれているから。

「風紀を乱すことはよろしくない」と思ってくれていることのあらわれであり、ありがたい反面、現代においては敬意を持つ人同士が集まると過剰にそうなってしまうジレンマもあるなと思います。

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「場の文化感を壊したくない」というのは、つまりはそういうこと。

あと最近、最所さんとお話した、中年の恋愛から「友愛」に流れる話もそう。

中年になると、どうしてもお互いの個を尊重したケアの恋愛になりがち。でも果たしてそれだけでいいんだっけ?という話をプレミアム配信の中でしてみました。そこに見事に通じる話。

お互いに相手に敬意を払いながら、相手のこを尊重しながらも、どこか遠ざけてしまうような関係性が、この「過剰なプライバシー尊重」と結びついているように思うのです。

ちなみにこの配信、ものすごく評判が良くて、プレミアムに登録してくださっているユーザー数以上の再生回数となっているので、ぜひ合わせて聴いてみてください。


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逆に言えば、昔の日本は、何もかもが筒抜け状態であるというのが大前提だったということなんでしょうね。

たとえば最近、僕は「男はつらいよ」シリーズを第1回からすべて観るという寅さんマラソンを開始しているのですが、初期の寅さんの時代(1960年代)は、本当にすべてが筒抜けだった。

家の形式も、当時の情報伝達手段(手紙やハガキ)も、ひとの噂話なんかも、すべてが筒抜け。

そりゃあ、この時代には、見えているけれど見えていないふり、聞こえているけれど聞こえないふりこそが、プライバシーの尊重だったんだろうなあということがヒシヒシと伝わってきます。

でも現代は当時の教訓のもと、家もプライバシーでガチガチ、スマホもプライバシーでガチガチに固められていて、ホントにまったくもって相手にプライベートな情報が漏れ出てこないようになっている。

知っているけれど知らないフリをすることがマナーだった時代から、本当にただまったく知らないという状況になりつつある。

で、だからこそ、余計に相手の状況がわからないから過度に慮ってケアしてしまう、という形になりつつあるなと思います。

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だとしたら、お互いに、同じ界隈におけるなかで別側面を、自ら能動的に見せていかないといけないなと思いました。

言い換えると、どうやって同じ界隈のなかの出来事として、お互いの別側面を捉えあっていくことができるのかが意外と大事になってきている。

過度に踏み込まず、でも「相手の別界隈の出来事だから」と見て見ぬふりもせず、 その包摂と敬意のバランスの再定義が今まさに求められているのだと思います。

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もちろん、繰り返しますが、相手が属している別界隈に対して過度に踏み込むことも違う。

とはいえ、そうやって相手の別界隈の側面を覗かない敬意によって結果的に界隈化して、分断している現実もそろそろ同時にちゃんと見定めないといけないフェーズだなと思うのです。

それはたぶん、みなさんが日常的に体験している「相手のスマホを覗かない」という敬意みたいな行動なんかにも非常によく似ている。

スマホを覗く・覗かない問題でいつも思い出すのは、臨床心理士・東畑開人さんのお話です。

東畑さんはご自身の著書の中で「人がスマホを覗くのは、相手を信じたいからです。相手に何も期待していないならば、事態を放置するだけです。」と以前書かれていました。

この部分を読んだときに、僕はなんだかとてもハッとしたんですよね。

もちろん、ここでくれぐれも誤解しないでほしいのは、だから相手のスマホを覗いて良いわけでは決してないということ。

他人のスマホは、たとえどんな理由があろうとも決して覗いてはいけない。不可抗力で見えてしまったとしても見なかったふりをするのが、現代の最低限のマナーです。

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でも、僕がここで言いたいことは、相手に期待するその気持ちまでも否定するのはどこか違うんじゃないか、と。

きっと東畑さんが、この表現を通して伝えたかったこともそういうことだと僕は思います。

だとすれば、どうやってもう一度、相手の関心事に対して健やかに関心を寄せていくのか。

現代の世の中のすべてが分断する構造の中で、界隈を飛び越えてそれを再構築していくのかが大事かもしれないということです。

それについて、僕は真剣に考えたい。

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で、そのときに大事なことは、意外とサービスの内容よりも、その順番だった、ということを、今回のオシロさんの新しい本棚機能で教えてもらったなと思うのです。

言い換えると、必要なものやサービスはもうすでに揃っている。

でも、その与えられる順番がまずコミュニティ、そのあとに本棚機能と異なれば、その順序の違いによって、お互いの関心事に対して、素直に関心を持てるということ。

それが今回のオシロさんの静かな革命でもあるなあと思ったのです。

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コミュニティで集ったうえでなら、その安心安全を担保にしながら別側面も少しずつお互いにさらけ出していける。

そのうえで、相手に対して素直に興味を持ち、より相手と深い対話を行うこともできるようになり、結果的に「余人を持って代えがたい存在」になることもできる。

もちろん、一切そこまで踏み込む必要もないし、まったくそれとは異なる距離感で関わることも許されるのが、コミュニティの魅力です。

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なんだか、ものすごく大きなヒントをもらった気がする。

「ここまで覗いていいよ」と「ここからは一切踏み込まないで」の範囲を自由に、各人ごとに選べること、その風通しの良さと確固たるプライバシーの尊重、その相反するような矛盾が見事に両立可能なことも、コミュニティの魅力だなと思います。

まさに、温故知新みたいな話です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。