先日読んだ加藤典洋の『村上春樹の短編を英語で読む 1979~2011 上 』。
https://wasei.salon/books/9784480099457?show_latest_user=true
この本の中で「喪失」と「欠落」の違いについて語られてありました。
このふたつ違いについて、考えたことがあるひとは一体どれだけいるでしょうか。
きっとあまり多くはないはずですし、自分もこれまで一切、考えたことがなかったテーマです。
でも、加藤典洋が村上春樹作品の批評を語る中で、この両者の違いが明確に語っていて、その違いがあまりにもおもしろすぎた。
そして今のAI時代において、ものすごく大事な違いだなとも感じたので、今日のブログにも丁寧に書き残しておきたいと思います。
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さて、まず加藤典洋は本書の中で、村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』の中に出てくる以下の報告文の部分を引用します。
「喪失」と「欠落」とのあいだには大きな違いがあります。簡単に説明しますと、そうですね、連結して線路の上を走っている貨物列車を想像してみてください。その中の一両から積み荷がなくなっている。中身だけのない空っぽの貨車が「喪失」です。中身だけではなく、貨車自体がすっぽりなくなってしまうのが「欠落」です。
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これだけでも非常にわかりやすい。自分も『海辺のカフカ』は複数回聴いているはずなのに、この部分はさらっと聴き流してしまっていました。
そして、加藤典洋はこの部分を受けて以下のように続けています。
「ないこと」がある。そこでは、何かが消えているのですが、その「ないこと」は僕のようにかつて何かが「あった」ことを知っている人間にしか、存在していないというのです。それが、「喪失」ということの意味です。
この箇所を読んだ時に、僕は強く膝を打ちました。なるほど!そういうことだったのか、と。
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つまり、欠落は、車両そのものがない。だから、外から見てもちゃんと欠けているのがわかるということです。
一方で、喪失は、車両は依然としてある。でも中身だけがない。外からは「普通の貨車」に見えてしまう。
ここで重要なことは、当人だけは「かつてそこに積み荷があった」ことを知っているということで、だからこそ、「ないことがある」という状態になるわけです。
でも、そのような「喪失」は、決して他者からは目には見えない。
ただ当人にとっては、たしかにそこに明確な空っぽがあると言えるわけです。欠落と変わらない状態。
なんなら欠落のように、他者とその「ない」ことを共有することができない分、余計に孤独にもなりやすい。
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では、この2つの違いについての話が、AI時代の仕事の話とどうつながるのか。
ここからが今日の本題になります。
まず、この文章を読みながら僕が思ったことは、「欠落を埋める」仕事は、もう人間の役割ではなくなっていくんだろうなあということです。
そんな誰の目にも明らかなありとあらゆる穴を埋める仕事は、今後はAIが行うようになる。
それはバーチャル、リアル問わず、です。
現状〜近未来は、AIが「ここが欠けている」「ここがボトルネックだ」と判断し、その最適解を人間が現場作業者、つまりブルーカラーとして、その指示に従って淡々と作業するようになっていくはずです。
そして、さらに進化し、フィジカルAIなんかも本格化してくれば、そもそも人間が現場で埋める必要性すら薄れていくかもしれないわけですよね。
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で、ここで思い出すのは、養老孟司さんが、以前「自分にあった仕事なんかない」という文脈の中で、「仕事とは、穴を埋めるようなものだ」と語っていたこと。
みんながその穴で転ばないようにする、それが仕事だと。
以下は今から丁度20年前、2006年に出版された『超バカの壁(新潮新書)』からの引用となります。
仕事というのは、社会に空いた穴です。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るから、そこを埋めてみる。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものであって、自分に合った穴が空いているはずだなんて、ふざけたことを考えるんじゃない、と言いたくなります。 仕事は自分に合っていなくて当たり前です。
これは素晴らしい定義だなと思います。初めて読んだ時、本当にそうだよなあと強く心打たれた話です。
そして、仕事を「自己実現」に寄せすぎた現代社会に対しての強烈なカウンターや明確な皮肉でもある。
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ただし、この「社会の穴(欠落)」を埋める作業そのものを、今後はすべてAIが請け負うようになっていくんだろうなと思うのです。
人間の出番がドンドンと減る。
なんなら、AIが穴があく前兆さえも察知・予見し、穴があいてしまう前に補強してしまうかもしれません。
そうなると、バーチャル・リアル問わず、物理的な「穴」はそもそも社会から消え去ってしまう。
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でも、それでも、きっと埋められないものがあると、僕らは感じるわけですよね。
むしろ、そうなればなるほど、「機能的には満たされているのに、何かが虚しい」という「喪失」の感覚だけが、より純度が増した状態で、僕たちの手元に残されることになります。
だとすれば、そんな「喪失」のほうだと思うのです。
「心にぽっかりとあいた穴」という表現がよく用いられますが、まさにソレ。
そして、やっかいなことに、冷静に言えば、実際にはそんな“穴”はないのかもしれない。完全なる本人の思い違いなのかもしれない。
でも確かに、私はそこに「穴がある」と感じてしまう。
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繰り返しますが、「喪失」が他者の目に見えないのは、かつて「あった」ことを知っている当人にしか存在しないからですよね。
だからこそ厄介で、だからこそ根深いんだろうなと思います。
ここが今日、僕が一番強く主張したいポイントです。
AIはそもそも「かつてそこにあったこと」を体験として持つことができないので、喪失という概念自体を内側からは決して扱えない。
言い換えると、「情報」として処理をすることはできても、喪失を「感じる」主体にはなれないわけです。
だとしたら、AIの登場によって、人間が本当に向き合うべきは(向き合わざるを得なくなるのは)、その喪失のほうの穴になっていくのは、もはや必定です。
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これは、過去に何度もご紹介してきた、村上春樹が語る「あらゆる人間はこの生涯で何か大事なものを探し求めている」という話にも、見事につながるなあと感じます。
ここでも、もう一度あのお話をご紹介しておきたいと思います。
僕の小説が語ろうとしていることは、ある程度簡単に要約できると思います。それは「あらゆる人間はこの生涯において何かひとつ、大事なものを探し求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そしてもし運良くそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し求め続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」ということです。
「見つからないかもしれない、見つかっても損なわれているかもしれない。でも探し続けなければならない」この運動自体が、まさに喪失の話なわけです。
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で、きっとお互いに、その穴を埋め合っていくことが、これからの人間の「お仕事」になっていく。
でも、その喪失の穴の上には、見事に社会に馴染むようなフタがなされていて、どこが入口なのかも一切見えない状態。そして、たとえ上から覗けたとして、どこが穴の底なのかもまったく見えない。
つまり、底が見えない深遠な真っ暗な喪失の穴でもある。
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逆に言えば、これまではそんな底が見えない真っ暗な喪失の穴というのは、見て見ぬふりをしておくことができたわけです。
欠落としての穴を埋める仕事を日々淡々と行い続けることによって、です。
確かにそこに私にはありありと実感できる喪失があるけれど、社会の中の欠落を埋めることこそが人間のお仕事だったわけだから、そっちに専念して気を紛らわしていれば基本的には良かった。
そしていつの間にか自らの寿命のほうが勝手にやってきて、その喪失という穴は、誰にも気づかれないまま、ホコリを被ったまま、あの世に行ってしまうこともできたわけですよね。
つまり人間は、他人や社会の明らかな欠落を埋めるという作業で、自らの寿命という時間を潰しながら、誤魔化し、誤魔化しながら、なんとかお茶を濁してきたわけです。
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でもAIが出てきてしまった以上、もうそれが許されない。
いよいよ、世の中のすべてのひとが、喪失と向き合わざるを得ないタイミングが来てしまったのかもしれない。
生きている限り、暇つぶし、時間潰しは、否応なしに必要なわけですからね。
それは、幸福といえば幸福なのかもしれない。これまでの人類の大半が向き合うことが許されなかった領域でもあるわけですからね。相当に暇な貴族や哲学者のようなひとたちだけしか、考えることが許されなかった領域。
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ただし、最後に答えのない問いとしておいてみたいのは、果たしてほんとうにそんな喪失の穴と全員が向き合う必要があるのか、とも同時に思うわけです。
もしかしたら、欠落の穴を埋める作業を、すべてAIに奪われてから、人間はどこかで再び気づくのかもしれない。
手作業の、文字どおり社会の穴を埋める仕事があったほうが良かった、と。
手を動かして穴を埋める作業というものには間違いなく、喪失から目を逸らす機能もあったわけですから。
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この問いの答えはまだ誰にもわからないけれど、とはいえ少なくとも、しばらくの間、これからの人間の「お仕事」は、欠落を埋めるお仕事から、喪失を埋めるお仕事へ、その重心が移っていくことは間違いなさそうです。
そのうえで、君たちはどう生きるか、が問われている。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
