何かを学ぶというとき、多くのひとは学校的な仕組みや構造を真っ先に想定してしまいます。

具体的には、教科書があって、指導者がいて、競争する生徒が存在していること。

これも当然だと思います。現代を生きる僕らは、みんなそうやって何かを学んできたのですから。

そして、指導するときの構造はザックリと3つぐらいの方法論に分かれるなあと。

ひとつは、「猿でもわかる〜」と、とにかく容易に簡単にしてハードルを下げていくパターン。

もうひとつは、スパルタ的に「わかるやつだけわかればいい」と開き直って、優秀な人間だけを選抜していくパターン。

そして最後は少し変化球で、道元の「只管打坐」のように「ただ座れ」と言い続け、生徒が自発的に学び取っていくパターンも存在すると思います。

とにかく、それぞれに導く方法は異なれど、いわゆる学校的な仕組みというのは特に変化しません。

大人になってからも多くの人間が、師弟関係やメンター、コーチングをしてくれる相手を求めるのもこれが理由だと思います。つまり、私に個別指導して欲しいと願ってしまう。

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じゃあ、なぜこのような形式が未だに成立するのかと言えば、それは僕ら現代人が完全に慣れきった形式だからという理由と同じぐらい、みんなが「生きる意味を必死で探しているから」だと思います。

だからこそお互いの立場を固定化し(その方が信じる事ができるから)、「あなたの生きる意味はこれですよ」と他者から授けて欲しいと誰もが願っている。

みんな「先生」を必死で探しているのです。まさに先に生きる人、です。

いつもこのブログの中で引用している『自由からの逃走』の話そのもの。

参照:自らの孤独感と無力感から目を背けたくて、人は権威に服従してしまう。

その授かる事柄の対象というのは、日常生活における本当に些細で具体的な事柄から、人生の指針となるような思想哲学の領域まで、すべての粒度においてそのように言えるかと思います。

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でも、僕は、その前提から疑ってみたいのです。

なぜなら、人間が本当に求めているのは、神話学者 ジョーゼフ・キャンベルが語るように「生きる意味」ではなく「いま生きているという経験」だと思うからです。

だとすれば、本人の内側からそれを発見してもらうことが、本当に大事なことなのではないか、そのほうが重要ではないか、と思うのです。

この違いに気づくことができるようになってきたのは、本当にここ最近の話ですし、実際に何を言っているのかをあまり深く理解してもらえないということは、重々承知しています。

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でも、自分が何かのジャンルにおいて伝える側にいると自覚するひとたちには、この違いについて一度は真剣に疑ってみて欲しいなと思うのです。

子育てしている親御さんだって、そのひとり。

きっと日々「どうやったら、わかってもらえるんだろう?」「なぜ、わかってもらえないんだろう?」という問いを行ったり来たりしているかと思います。

そして、実際にその試行錯誤の中で得られた仮説を相手に対して実践してみると、ある程度手応えがあったりして、周囲からも喜ばれる状態を体験する。

その試行錯誤を繰り返しブラッシュアップをしていけば、ものすごく他者から感謝されるシーンも増えてくるかと思います。

でも、それが完全に落とし穴だなあと僕は思うのです。

このある種の啓蒙的な視点からどのように脱却するのかのほうが、今ものすごく問われていると僕は思います。

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ほとんどの指導者や活動家は、ここを大きく見誤っていると思う。

もちろん、上から下に向けたヒエラルキー構造の中だけではなく、何かサービスをつくるとか、相手よりも下手に出て相手を自分の思う方向へと他者を誘おうとするような場面においても、全く同様のことが言えると思います。

自分自身の行動や挑戦で、他者に間接的に「勇気を与える」という非常に尊く美しい姿勢でさえそうかもしれません。

そうではなくて、相手が内発的動機に導かれて、自発的に体験し始めるようにするためには、どうすればいいのかを考える。

それがきっと「仲間になる」ということだと思うし、共に同じ方向を向いて同志になるということだと思うのです。

「こんなにも、私たちはお互いにフラットな関係性じゃないか」と自覚し合うこと。

そこにいま登場してきているのが、NFTやDAO、web3の世界観だと僕は思っています。

「いま生きているという経験」を本当の意味で共有することができる時代がやってきているのではないか。

具体的には、昨日のブログにも書いたように、学ぶ「楽しさ」や「遊び」のような余白を共有していくことです。
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さて、今日書いてきたようなお話は、あまりにも僕らの常識になりすぎていて「空気を吸って、吐くこと」を一度疑ってみようというぐらい、大前提から疑ってみるという話です。

なので、なかなか伝わりにくい話かもしれませんが、少しでも灯台下暗し的な感覚があったら幸いです。

もちろん、今このようなブログを書いている自分でさえ「今生きているという経験を、他者と共有しよう」とある種の啓蒙的な視点から書いているという事実からは脱却できていないこと自体、重々自覚しています。

世の中に向けて何かを発信しようとした時点で、必ずこの構造の中に絡め取られてしまうのも事実なのです。だからこそ非常にむずかしいのです。

でも、そうやって必ず絡め取られてしまう構造の中にいる、そこから抜け出すことはできないとわかっていながらも、その方向へと動き続けることが、ものすごく大事なことだなあと思っています。

決して諦めないこと。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。