先日、Xでヒラクさんのこの投稿を見かけました。
個人の発信の場を、独自ドメインのブログに戻している、という話です。
そして、その最後に、以下の一文がさらりと添えられていた。
「AI使わない人間の思考によるクラフトインターネットです。」
これを読んで、僕はなんだかものすごく共感したんですよね。
最近ずっと書き続けていることですが、いまは、生成AIコンテンツが氾濫したことによって、人間の手によって書かれたものや、その人の身体と思考をちゃんと通過して出てきたものの価値が、遡行的に照らし出されているような感覚が強くある。
だから僕は、「クラフトインターネット復興運動のようで、とても共感するし、全力で応援したい」と返信しました。
すると、ヒラクさんからは、以下のように返ってきた。
「AI使ってないです、という前置きをしなければいけない日が来るとは...汗」
こちらも本当にそうだよなあと思いながら、思いました。
少し前までは、人間が文章を書いていることなんて、わざわざ説明する必要もないくらい当然のことだったんですが、今はもうそうじゃない。
「これはAIを使っていません」とわざわざ書かなければいけない。大豆食品のパッケージに、「遺伝子組換大豆ではありません」とわざわざ注意書きするように、です。
なんだか本当に不思議な時代になったなあ、と。
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ただ、ここで気をつけたいのは、だからといって、単純に「AIが悪い」とか「人間の手仕事だけが正しい」という話にしてしまってはいけない。
実際、ヒラクさんもそのあとに、こんなふうにもう一度リプライをくれました。
僕はテクノロジーを否定しているわけでは全くなく(むしろ好き)、発酵自体もまたテクノロジーなわけで。という意味で僕は、ドミニクさんが言うテクノロジー自体を発酵させることを実践しようとしているのだと感じています。
これを読んで、僕はかなりハッとしたんです。
発酵をテクノロジーするのではなく、テクノロジー自体を発酵させる。
この言葉の順番の違いに、現代におけるものすごく大事なことが含まれている気がしたので、この一文について、僕なりの勝手な解釈を、今日は書いてみたいなと思います。
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この点、僕らは、新しいテクノロジーが現れると、どうしても自分たちが立っているジャンルの側を、そのテクノロジーで拡張しようとしてしまいます。
まさに、発酵をテクノロジーする、というように。
他にもたとえば、贈与をテクノロジーするとか、歌舞伎をテクノロジーするとか、コミュニティをテクノロジーするとか、そんな感じでこれまで自分が携わってきた分野やジャンルに、テクノロジーを融合させようと必死で取り組む。
もちろん、それ自体が悪いわけではないとは思います。
これまで届かなかった人に届けることができたり、保存できなかったものを残せたり、見えなかったものが見えるようになったりすることにも見事につながるわけですから。
それは本当に、すごいことだと思います。
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でも、そのときに見落としてはいけない問いがひとつだけある。
それは、どちらがどちらを飲み込んでいるのか、という問いなんだと思います。
発酵をテクノロジーするのか。それとも、テクノロジーを発酵させるのか。
これは、言葉遊びのように聞こえてしまうかもしれないですが、完全に似て非なるもの。
同じように新しい技術を取り入れているように客観的に見えても、そのあり方自体は180度違う場合があるということです。
たとえば、発酵をテクノロジーするというのは、発酵という営みを効率化して管理し、再現可能にし、スケールさせていく方向に進みやすい。
それはそれで、品質の安定やこれまで届かなかった場所への拡張という意味では、重要なことだと思います。
でも、そのとき発酵は、すでにテクノロジーの論理の中に置かれてしまっている。
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一方で、テクノロジーを発酵させるというのは、まったく逆のことなんですよね。
テクノロジーそのものを、時間や環境、偶然性や身体感覚、他者との関係性の中で、ゆっくりと熟成させていくこと。
つまり、テクノロジーの論理で発酵を解釈するのではなく、発酵の論理の中にテクノロジーを取り込んでいく過程の方を優先している。
これはたぶん、前述した贈与についても、歌舞伎についても、コミュニティについてもどんなジャンルにおいても、まったく同じことが言えるんだと思います。
たとえば、歌舞伎をテクノロジーするといった瞬間に、映像化するとかデジタルアーカイブ化するとか、AIで解説をつけるとか、そうやって舞台演出に新しい技術を取り入れるという話になりがちですよね。
でも、それだけではまだ、歌舞伎がテクノロジーの中に入っているだけかもしれないわけです。
本当におもしろいのは、逆に、テクノロジー自体を歌舞伎化していくことではないか。
もっと言えば、テクノロジー自体を「かぶく」こと。
テクノロジーがどこか過剰で、ずれていて、見得があり、あえて歪んでいるものとして立ち上がってくるようにすること。そうやって、テクノロジーを歌舞伎の側に引き寄せる。
それは、古い文化を新しい技術で延命することとは、まったく違う話だと僕は思います。
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つまり、ここで問われているのは、使うか使わないかではなくて、どちらの容器に、どちらを流し込むのか、みたいな話なんです。
または、どちらの土俵の上に、どちらをあげるのか。
たぶん、ここが決定的に大事なところなんだと思います。
ホーム&アウェー方式みたいな感じで、同じ対戦カードの試合であっても、ホームで行うかアウェイで行うかぐらいの違いがある。
同様に、まったく同じもの同士の邂逅であっても、その客人を自分たちの家のほうに招き入れ、自分たちがホストであるという自覚が大事なんだろうなって。
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多くの場合、僕らは自分がアウェイで飲み込まれていることに気づかない。
最初は、便利な道具としてテクノロジーを使っていたはずだったにも関わらず、いつの間にか、自分の判断基準や美意識、身体感覚のほうがテクノロジーの論理に置き換わっている。
そうやって、気づけばサイボーグのようになっていく。
これは、文字通り身体に機械が埋め込まれるという意味ではなくて、自分の感覚や判断や欲望のほうが、知らないうちに外部のシステムに合わせてつくり替えられていく、ということです。
しかも、それはとても自然に、無意識に起こる。
そして何よりも厄介なことは、それは一見すると「成功」しているように見えるんですよね。
より多くの人に届いているし、より効率的にもなっている。もちろんお金もジャンジャン稼げる。
でも、そのとき、自分たちの土俵はまだ残っているのか。自分たちの作法や身体は、ちゃんと残っているのか。問うべきは、たぶんそっちなんだと思います。
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そんなふうに考えていたときに、最近書いたブログのことを思い出しました。
ヒラクさんの新刊『僕たちは伝統とどう生きるか』を読み終えたタイミングかつ、『本なら売るほど』というマンガの読書会を終えたタイミングで書いたブログです。
そのマンガの中に出てくる「心ない人に買われるくらいなら、心ある人に捨てられたい」というセリフについて論じた記事です。
あのとき僕が考えていたのは、伝統というのは、本当に同じ形のまま残り続けることなのだろうか、ということでした。
味噌が味噌のまま残る。歌舞伎が歌舞伎のまま残る。それはもちろん、尊いことです。
でも、もしその形が、心ない人の手によって、ただ形式だけ保存されているのだとしたら、それは本当に継承と呼べるのだろうか、と。
逆に、味噌が味噌のまま残らなかったとしても、その「味噌らしい面影」が、未来の別のものに宿っているなら、それはそれで、ちゃんと継承と呼べるのではないか。
形が残ることと、魂が継がれることは、必ずしもイコールではない。むしろ、ときには形がちゃんと捨てられることで、その面影やなりふりだけが、別のものへと乗り移っていくことがあるのかもしれない、と。
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で、この話は、今回のテクノロジーの話とも、そのまま地続きになっている気がするんです。
テクノロジーによって伝統を保存することと、テクノロジーの中に伝統の面影を移植すること。このふたつは、まったく違うのではないか。
形式として残っていても、そこに本来の息づかいがあるかどうかは、また別の話です。
「テクノロジーを発酵させる」というのも僕の勝手な解釈ですが、たぶんそういうことなんだと思います。
発酵という形を、テクノロジーでそのまま延命することではない。発酵の面影や、なりふりや、時間感覚や身体感覚を、テクノロジーの中に宿らせていくことの重要性です。
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以前、ヒラクさんから「縦の系譜を継ぐ」という話を聞いたことがあります。
僕はこの言葉が、本当にすごく好きなんですよね。いつしか自分のメインテーマにもなっている言葉のひとつです。
「縦の系譜を継ぐ」というのは、ただ昔のものを保存することではない。昔と同じことを、そのまま繰り返すことでもない。
でも同時に、新しい時代に合わせて、形だけを変えて生き残ることでもないはずで。
今日の話を踏まえると、より理解しやすいと思うのですが、本当に「縦の系譜を継ぐ」というのは、新しく現れたものを、自分たちのホームにちゃんと客人として招き入れていくことなんじゃないか。
自分たちの作法や美意識の中に新しいものを丁寧に取り込んでいく。それによって、自分たちの系譜のほうも、変わっていく。
でも、その変化自体は、決して外から強制された変化ではない。自分たちの内側から起こる内的変化です。
テクノロジーも、本当はそうやって扱うことができる類いの代物であるはずです。
逆に言えば、自分たちのジャンルがテクノロジーに飲み込まれた形においてだけ生き残っているのだとしたら、それはかなり危ういことかもしれない。
だからこそ、「心ある人に捨てられたい」という話と「テクノロジーを発酵させる」という話は、僕の中でかなり深いところでつながっているなと感じました。
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最後に、ヒラクさんのリプライの中にあったもう一つの言葉にも触れておきたい。
ヒラクさんはこの話の文脈のなかで、「発酵自体もまたテクノロジーである」とサラッと書かれていました。
この一言も、なんだかものすごくハッとさせられる言葉です。
つまり、最初のうちは、僕ら凡人には、発酵とテクノロジーはまったくの別のもののように見える。
僕ら凡人が、そうやって伝統と革新のように、わけて考えてしまいがちなわけですよね。
言い換えると、発酵は自然で、テクノロジーは人工。発酵は手仕事で、テクノロジーは機械であると。そんなふうに、ついつい新旧で対比をしたくなってしまう。
でも、よくよく考えてみれば、発酵もまた、人間が自然や菌や環境や時間に働きかける技術です。
完全な自然ではないし、かといって完全な人工でもない。
人間がすべてをコントロールするわけではないけれど、ただ放置しているだけでもない。自然と人間と技術と時間が、複雑に絡み合っている。
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そう考えると、発酵とテクノロジーは、そもそも対立なんてしていなかったのかもしれない。
むしろ、発酵はテクノロジーのひとつの理想形なんじゃないか、とすら思えてきます。
だから、ここまで考えてくると、AIや新しい技術について考えるときにも、単純に使うか使わないかという二項対立の話には、もうならないわけです。
まさに鈴木大拙がよく語る「一即多、多即一」のような話。一は即ち多であり、多はそもそも一だったというような驚きがここにはある。
多少意味合いは変わってしまうけれど、まさに「主客未分のような状態」に近づく。どちらがホストで、どちらがゲストかは、もはやこの段階では関係がない、と。
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今日のブログは、ヒラクさんには「いやいや、そういうことじゃねえんだよ!」と笑われそうな気もしているのですが、それでも、僕はあの短いやり取りの中から、いまの時代にとってけっこう大事な問いを受け取った気がしています。
発酵をテクノロジーするのではなく、テクノロジーを発酵させる。
そのためには、自分たちの土俵をちゃんと持っていなければならない。自分たちの作法や自分たちの時間軸など、これまでの縦の系譜にプライドを持って挑まなければならない。
でも、だからといって、目くじら立てて腕まくりする必要なんてまったくなくて、大事な客人(マレビト)を、我が家で丁寧にもてなすようにして、新たなテクノロジーに対して相対すれば良い。
これもまた、ひとつの喫茶去精神です。
そうでないと、どれほど新しい技術をうまく使いこなしているように見えても、いつの間にか、こちらのほうが静かにその客人の中に飲み込まれていく。
テクノロジーを拒むのでもなく、テクノロジーに従属するのでもなく、自分たちの側で、ゆっくりと発酵させていくこと。
それはたぶん、これからのコミュニティや文化にとっても、けっこう大事な構えなんじゃないかと思うのです。これもまた「裏の裏」精神です。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
